「今病みゆく子どもたち… 私たちにできること、しなければならないこと」 愛と優しさを…(下旬)

 その中での五十枚の千円札、尊い尊いお金でした。

苦しかったでしょう。

彼女はこう言いました。

「先生、私がとったの知ってたんだよね」

「うん知ってたよ」

「じゃあ、なんであのとき先生言わなかったの」

「だって俺が悪いもん 。

お前は訳なく人のお金を取るような子じゃない。

何か相当お金がいる理由があったんだろう。

そんなときに、俺はお前の学校での親なんだから、

『先生、お金貸して。

こういう理由でお金がいるから、用立ててくれ』

って言える人間関係を先生作ってなかった。

二年もお前の親やって。

だから俺が悪いんだよ。

だからああやって収めたんだ。

もういい、よそうぜそのことは 。

それよりお前、就職決まったんだから、この五万円はお前の就職祝いであげるよ。

好きな物買いな。

お前の物買うんだぞ。

母ちゃんのために使うな。

その代わりあの財布だけは買うなよ。」

 僕はこれが教育だと思う。

もしあのときあの子を追い詰めていたら、あの子は学校にはいられなかった。

やめたらあの子は今どこにいたんでしょう。

子育てや教育は今で負わせてはいけない。

子どもの五年後、十年後、明日の夢のためにやるのが子育てや教育なんです。

 ところがほとんどの親や先生たちは今にこだわる。

今の正義が明日の正義とは限らない。

私たち大人は許すことができる。

待つことができる。

でも今の時代はそれを全くしてないんじゃないか。

そして「今の正義」という絶対的なものを振りかざして子どもたちを追い詰めていませんか。

許すということ、待つということは、信じるということです。

だから今、大人たちは子どもを本当に信じてないと私は思います。

もっと子どもを信じてやってください。

 僕は子どもを怒るのは教育だと思いません。

例えば、ここが体育館で、

「おい○○、なんでしゃべってんだ。

お前外に出すぞ」

と言うと、外に出されるのが嫌だからしゃべらない。

でも、こんなのは教育じゃない。

そのそばへ行って、

「頼むよ、お前がしゃべってると周りの人が迷惑するんだ。

話してる人にも悪いだろう」

「あ、そうか。

こういうときにしゃべると、他の人に迷惑かけるからしちゃいけない」

と、いくら時間かかっても学ばせることが教育でしょ。

 僕は子どもは花の種だと思っています。

皆さんお好きな花の種を来年の春にお庭にまいてごらんなさい。

どんな花の種だろうと、まいた皆さんが一生懸命丁寧に育てあげれば、必ずきれいな花が咲く。

もしきれいな花が咲かなかったら、植えた皆さんが踏みにじったか、水や栄養をやらなかったか、あるいはやりすぎたか。

 子どもだって同じですよ。

お父さんお母さんが、我々先生が、おじいちゃんおばあちゃんが、地域の大人が、マスコミまで含めた全ての大人が、

「お前のそういうところが大好きだ。

お前はいい子だな。

お前にはきっとこういう明日がある」

と、たくさんの愛と優しさを栄養として育てれば、どんな子だって時が来ればきれいな花を咲かせるんです。