「『御堂さん』よもやま話」(下旬) 当たり前のこと

『御堂さん』編集長 菅 純和さん

さて、私は『御堂さん』の編集長ですが、二代目でございます。

初代編集長・佐々木俊朗は、このハートフルで二回講演を致しました。

今から三年前の二月に亡くなったんですけれどね。

最期は肺ガンでございました。

肺ガンの上に、もともと喘息(ぜんそく)持ちでございました。

どちらも呼吸器系の病気です。

だから晩年は大変でしたよ。

 二回目のハートフルの講演の時に、九十分持たずに六十分くらいで切り上げたということを聞いております。

晩年は私の顔を見るたびに言ってました。

「菅君、息するって大変なことなんやで」「菅君、息するってえらいことやねんで」とね。

なぜかと言いますと、少なくとも今この瞬間で、私たちは息をする、呼吸をするということを大変なことだなんて思わないんですよ。

 ところが肺ガンですよ。

肺ガンですから、ガン細胞が特に左肺をだんだんと冒してくる。

そうすると呼吸困難になってくる。

そのうえ喘息という発作を起こします。

特に寝るとき横になっても、とても眠れたものではないんですって。

 横になって眠ろうとすると咳き込む。

咳き込んでついには呼吸が出来なくなる。

それで呼吸が出来なくなるってどういうことかと聞いたらね、「息は吸えるんだ」と言います。

息は吸うことは出来る。

息を吸うことは出来るんだけれど、今度はその息を吐き出すことが出来なくなるんですよ。

 息を吸ったままだと苦しいじゃないですか。

人間は息を吸うたら吐かなきゃいけません。

それが吐けない。

吐くために、全身のありったけの力を込めて、やっとハァッと吐ける。

でも、吐いたら今度はまた吸うでしょ。

吸うとまた同じ苦しみですよ。

それを吐くのに全身汗だらけになるんですって。

 それで一晩中夜明けまで、息を吸って、それを精一杯吐いて、また吸うて、また懸命に吐く。

これを繰り返していくんだから、夜はとにかくクタクタになるんですって。

もちろん眠れません。

そういうことで、「私はこの肺ガンになるまで、呼吸がこんなに大変だなんて思ったこともなかった」と言ってました。

 なぜ人間は人間なのかということについて、仏教では人間は神によって創られたなんてことは言いません。

そしたらなぜ人間なのかというと、人間は人間であるべき「縁」が寄り集まって、たまたま人間であるんだと考えるんですね。

たまたま「縁」によって人間であり、そしてたまたま生きるべき「縁」が全て整って、私たちは今を生きておる。

生きるという「縁」がなくなれば死ぬんですよ。

 だから呼吸というものも、私たちは意識しないけれど、この肺が勝手に動いてくれて、呼吸器が呼吸器として働くという「縁」があって、それで私たちは呼吸をし、何ら意識することもなしに生きているんですね。

心臓もそうですよね。

そうするとやっぱり、生きるということ、生き吸うということは、本当は大変なことですよ。

 その大変なこと、呼吸をするということを何にも意識しないでしているということは、本当にすばらしいんですよ。

ですから、仏教という教えは、世間で「あれは不思議だな」と言われるような「不思議なこと」を言いません。

むしろ我々が何とも思っていない、何にも意識しない、そういうものこそ本当に不思議で有り難いものなんだ、ということを教えていく教えであります。

 それが仏教だと思っています。

そういう当たり前のことが実は不思議であり、当たり前のことほど尊いものはないということを教える仏教。

その仏教の精神を、何とか『御堂さん』の誌面で表していきたいと思っているんですよ。