仏教講座2月(後期)「念仏者の今日的課題」(1)

 ところが、西本願寺教団では長い間スローガンに「念仏の声を世界に子や孫に」と掲げてきたものの、浄土教で最も大切なその「念仏の声」が、昨今人々の口から出なくなってきています。

今から三十年ほど前までは、ご門徒の方が本堂にお参りされるとその口から南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏という念仏の声が自然に称えられていました。

現在は、儀式の場では念仏が聞かれないこともないのですが、かつては当然のように念仏の声が聞かれた葬儀や法事の場でも、合掌する姿は見られても、念仏の声はあまり聞かれなくなって来ているというのが現状です。

 その原因の一つは、私たちが受けている教育にあるといえます。

私たちがいま受けているのは、基本的には明治の半ば頃から始まった近代化されたヨーロッパ的な考え方です。

したがって、今日の日本人はすべてこの近代教育を受けていることになります。

では、その近代教育で私たちはいったい何を学んできたのかというと、端的には「理性的・合理的なものの考え方」だといえます。

その結果、理性的に判断して、とても真実だと思えないようなことは「信じるに値しないこと」と排除してしまうことになります。

 ところで、浄土教では人々に「西方に阿弥陀仏の極楽浄土がある」と教えます。

けれども、近代教育を受けて、理性的な判断をすることが正しいことだと考えている人は「南無阿弥陀仏と念仏を称えると、死後その極楽に生まれます」と説かれても、自分自身で阿弥陀仏や浄土を確認することが出来ないので、「いま念仏を称えてください」と要請・指示されると称えることはあっても、生活の中で、無意識的に常に念仏を喜ぶという生き方は、ほとんど不可能になっているようです。

これが「念仏の声が聞かれなくなっている」ことの大きな原因の一つであるように思われます。

 では、近代的な教育を受けた人々の口から再び念仏の声が聞かれるようにするにはどうすれば良いのでしょうか。

南無阿弥陀仏はまた南無不可思議光とも言い表されますが、「不可思議」とは「思議すべからず=思いはかるな」つまり阿弥陀仏の存在を理性的に理解しようとしても、私たちには永遠に理解し得ないということを教えてくれている言葉です。

例えば、地球は一日一回転(自転)しながら、一年かけて太陽の周りを回って(公転)います。

けれども、私たちの眼にはどう見ても太陽が東から上り西に沈んで行くようにしか見えません。

では地球は自転していないのかというと、やはり自転しているのですが、おそらく私には地球が自転していることは生涯自らの感覚ではとらえることは出来ないと思います。

 このような視点から、改めて念仏とは何かを問い直すと共に、かつてのように念仏者の集まる場においては「澎湃(ほうはい)として」念仏が称えられる光景が見られるよう努めることが、今日の念仏者の大きな課題ではなかろうかと思われます。