「今をいかに生きるか」(1)4月(中期)

 

仏教の人生の幸福観は「豊かで明るく便利で楽しい生き方を求める」という方向はとりません。

なぜなら、お釈迦さまが最初に説かれたように「私たち人間は、老いと病と死を免れることはできない」この一点を見つめるのが仏教だからです。

私たちが願う幸福とは、これは誰においても例外はないと思われる事柄なのですが、それは具体的にはいつまでも若さを保ち、健康に毎日を送り、欲望を満たす楽しい生活ができることだといえます。

そして、そのような幸福を科学の恩恵によって実現させようと努力し続けて来たのが人間の歴史だともいえるのですが、その時々の科学の恩恵に身を浴していながら、それにもかかわらず科学によってもその思いが満たされないなら、宗教の力を借りてでも…、ということになるのです。

けれども、仏教ではそのような願いこそが「迷い」なのだと教えています。

周知の通り、人はどのように若さを保とうとしても、やがては老いていきます。

長く生きたいと願えば、必然のこととしてその老いの姿を除いた人生はありません。

また、健康であることを願っても、やはり病むことを除いた人生などあり得ません。

そして、一人ひとりは最後には必ず死んでしまうのです。

そうしますと、その死を除いて私の人生はないだとすれば、人は幸福を求めて生きようとしながら、それにもかわらず最後は死んでしまうのですから、人は誰もが最後は必ず不幸になる、これが偽らざる自分の姿だということになります。