「今をいかに生きるか」(1)4月(後期)

 

第二の正しい生活はどうでしょうか。

私たちの社会には法律があり、倫理・道徳が教えられています。

世界中のどの国も、自分の国こそが正義であると主張し、悪が厳しく排除されているといえます。

したがって、「表面的」には、誰もがまさに善人であるかのような顔をしています。

ところが、現実はその社会に悪が満ち溢れています。

善を望まない人はいないはずなのに、現実はお互い悪の中で顔を付き合わせているような社会しか人間は作れないのだといわざるを得ません。

だとすれば、第三の心の安らぎですが、この人間社会には、本当の意味での心の安らぎを得る場所など存在しないということになります。

人々は、安らぎのある人生を求めながら、一日一日の生活に安らぐ心がない、それが人間の姿です。

そうしますと、幸福な人生と正しい生活と心のやすらぎという三点を実現させるという教えは、実は教えそのものに無理があることになります。

したがって、宗教の名のもとに「この教えに従えば、このような三点を実現出来る」と説いている教えがあるとすれば、それは「間違った宗教」ということになるのではないかと思います。

ここで親鸞聖人の教えが問題になります。

例えば、心の安らかさについてですが、凡夫の心は常に煩悩が渦巻いており、臨終の瞬間まで、安らかな心は起こり得ないといわれます。

親鸞聖人の教えでは、私たち凡夫は安らかな心など作り得ない、ということになるのですが、ただしそのような実際に感覚の中で味わう、安らぎの心を問題にしなくても、現生においてそれを超える喜びの心は得られると説かれます。

これは「安らぎ」を、心のある感情的な状態としてとらえるのではなくて、より根源的な自らの全人格の全体を支える教えとの出遇いとして見られることになります。

では、それはどのような教えなのでしょうか。