「親鸞聖人の念仏思想」 (5)10月(前期)

 私たちは、親鸞聖人が「悪」とされる「自分こそは正しい、自分が絶対である」とする自己中心性を破るためには、仏教の無常とか無我という教えに出会う必要があります。

なぜなら、この教えに出会うということが、真の意味で「善を好む」ということになるからです。

 それでは、善を好むとはどういうことなのでしょうか。

それは一言でいえば、無常と無我の実践ということだといえます。

仏道に即した実践においてのみ、実は善を好む姿があるのです。

無常の実践とは真実の智慧を持つ以外にはありません。

それは、何も頭の中で考えて、自分が生まれてやがて死ぬのだということが分かっているというようなことではありません。

そうではなくて、まさしく自分が無常のなかにあるということを、体の全体で知って、智慧の実践をすることです。

これが無常の実践です。

 それに対して無我の実践ということは、真実の慈悲を持つということです。

これが無我の実践です。

我を中心とした自分が、世の中で働くのではなくして、無我という立場で世の中に出ていくことが、慈悲の実践ということになるのです。

そして、このような実践においてのみ、まさに仏教の行が真の意味で成り立つといえるのです。