「縁起」とは
「すべての存在は無数無量といってよいほどの因縁によって在り得ている」
という、仏教の基本思想を表す重要な用語ですが、私たちの日常において用いられている仏教用語の中で、誤解されて用いられている言葉の代表的なものだと言えます。
具体的には
「縁起が良い(悪い)」
「縁起をかつぐ」
という用いられ方がそれで、吉凶の前兆として用いられているのが常です。
このような使われ方がなされるようになった理由として考えられるのは、寺社などの由来・沿革・起源という意味で用いられる
「縁起絵巻」
という言葉がありますが、この時の縁起という言葉と仏教本来の縁起という意味がすり替わって、いつのまにかその由来という意味が吉凶の前兆という意味となってしまったことによると思われます。
仏教における縁起とは、私たちは結果(果)から見ると、そこには必ず原因(因)と条件(縁)があり、ひとつの事実は常に因と縁によって存在するのであって、それらの因縁をとり除いたら、「私」という存在も全くないという意味です。
それを「無我」というのですが、このような仏教本来の意味で理解すること成しに、この私がたくさんの因縁をいただいて生かされているという通俗的な意味で理解されてしまったことが誤解を生んだ理由かと思われます。
そのために、自分の都合だけを求めているこの私が先に存在しているのですから、自分の都合の良い因縁だけを願ってしまうことになるのです。
そして、縁起が良いとか悪いという「縁起をかつぐ」という構図も生まれるのだと言えます。
仏教の基本思想でいう縁起とは、私が先に存在しているのではなく、無数無量の因縁が私となっているということです。
無量無数の因縁によって私が成り立っているのですから、私の身に起きた事実はすべて私が引き受けていくべきであり、決して他の何ものかのせいであったり、ましてや他に転嫁していくべきではありません。
節分の時に「福は内、鬼は外」と口にしますが、事実としては「福は内、鬼も内」なのです。
縁起が吉凶の前兆を意味する、自分の都合を願う言葉になってしまうと、仏教の大切な教えも、自分の都合に合わせて解釈してしまうあり方に陥る可能性が多分にあります。