「迷惑」

「他人に迷惑をかけないようにしましょう」

とか

「多大な迷惑を被った」

などと言われるこの迷惑という言葉は、不利益とか不都合という意味に使われるようです。

しかし、迷は本当の道に迷うことを意味し、惑は途方にくれてとまどうことを意味します。

両方の字が示すように、この言葉も本来は迷い戸惑うことを意味する仏教語です。

 私たちはともすれば目先の利益だけにとらわれて、しかもそれが一番大切なことであるかのように錯覚しています。

仕事でも、家庭でも、その場その場の目的に向かって一生懸命に努力することは大切なことですが、人生を貫く真理に目覚めることが出来なければ、その全体がなぜか空しく感じられ、同じことの繰り返しの中で流されていくことがあります。

 仏法に出会わなければ、自身が迷いの身であることにさえ気付くこともなく、知らず知らずのうちに自分を傷つけ他人を踏みつけにして生きるほかはありません。

このような自他を傷つけるという意味が転じて、この言葉が不都合という意味に使われるようになったのでしょうか。