なぜいま念仏か(3)9月(前期)

しかしながら、この入院という事態を病人である本人から見ればどうなるでしょうか。

大変な苦痛にさいなまれること自体、言いようのない惨めさを味わうことになるのですが、加えて今の自分の姿はどうでしょうか。

それがどれほど素晴らしい病院だとしても、自分はただ一人、全く知らない病室で医療器具に覆われて横たえられているのです。

さまざまな治療が施されてはいるものの、まさに「薬石の効もなく」日々弱って回復の兆しは見られません。

病室に隔離されていて、見知らぬ医者や看護士に治療をしてもらうのですが、心の甘える場はありません。

家族にしても、常に付き添っていてくれる訳ではないのです。

確かに、形式的に自分は周囲から笑顔を見せられてはいますが、実質的には既に自分の存在は世間から忘れられています。

病室から外を見ると、外の世界は無限に明るく、人々はレジャーに浮かれ、楽しみを満喫させて、愉快に生活を送っています。

それに比べて、自分の心は無限に暗いのです。

この病人の姿に、はたして「救い」は見られるかということを、今たずねているのです。

仏教では、六道輪廻の中に見られる「天上界」を迷いの世界だととらえます。

天人の住む天上界(天国)には、苦悩の原因になるものは何一つないと言われています。

したがって、天人の生活は楽しみのみなのです。

では、なぜその天人の世界が「迷界」だと言われるのでしょうか。

その最大の理由は、天人もまた無常の道理の中に置かれていて、寿命があるからです。

ただし、天上界には苦悪の要素は何も存在しませんから、天人は自分に寿命があることを知ることができません。

もしそのことを知れば、不安や苦痛を生むことになってしまうからです。

そこで、天人の生命は常に享楽のさなかにありながら、ある時突然「死」に襲われることになるのです。

ところで、死体は腐敗をしますが、それはまさしく「穢れ」であり、他の者に不快の念を抱かせる要因になりますので、清浄なる天上界に存在することは許されなくなります。