『私の安心はいつも一安心』

仏教では人間を「機」という言葉で呼びます。

機とは「機微(きび)」、つまりかすかなものをもっているもの、意識よりももっと深いところにいのちそのものの願いを持っているもの、というような意味ですが、そのかすかなものが私たちの生活の中において、どのような形で一番具体的に現れてくるかというと、それは「不安」です。

私たちは、生きて行く中で、誰もが何かしらの不安を抱えています。

けれども、考えてみますと不安を感じるということは不思議な感じがします。

なぜなら、こういう時には不安を感じるものだとか、不安はこのようにして感じるのだとか、誰かに教えられて不安を感じるようになった訳ではありません。

それにもかかわらず、何かしら人生に対する不安を感じる時があります。

思うに「不安」とは何かと言うと「今の在り方は確かか」という、問い返しなのではないでしょうか。

それは、私の中に私の在り方を問い返す何かがあるということだと思います。

したがって、何となく自分の生き方に不安を感じるのは、今の私の生き方に「それでいいのか」と、問いかけてくる何かがあるからに違いありません。

ところが、私たちの日々の生活を振り返ってみますと、その問いかけの意味に気付くことなく、何とかその不安を感じないようにと、不安を消し去る努力を試みたりします。

そこで、神仏に祈ったり、占いに頼ったりするなどして、不安を消そうとするのですが、どれほど一心に無病息災を願っても、時間の流れを止めることは出来ないのですから、不安を消そうとする努力は、所詮単なる気晴らしに終わってしまいます。

なぜなら、時間を止められない以上、老いることも死ぬことも避けられないからです。したがって、たとえ不安が消えたように思っても、それは一安心に過ぎないです。

考えてみますと、私たちは不安があるからこそ、真実の言葉に耳を傾けることが出来るのではないでしょうか。

不安とは、私が感じようと思って意識して感じるものではありません。

しかしながら、日々の生活の中で誰もが確かに感じるものです。

それは、自らの力では意識出来ないような、かすかな「いのちの叫び」とでも言い表してもいいようなものですが、その事実に目覚めさせ、確かな問いを気付かせて下さるのが、仏さまの言葉、仏教の語りかけなのだと言えます。

心の奥底から、私の生き方を問い返してくる力が「不安」だとすると、それを消し去って一安心することを求めるよりも、その不安があるからこそ、私たちは真実の生き方を求めることが出来るのだと仏法に耳を傾ける、そのどちらの生き方を選ぶかはあなた次第だと言えます。