『唯、念仏 弥陀の手の中』

 南無阿弥陀仏という仏さはま、本来は

「色もなく、形もなく、言葉で言い表すことも、思いはかることも出来ない真実なる存在(真如)」

であると言われます。

ところが、それでは私たちは全く受け止めようがありませんので、真如の方から「南無阿弥陀仏」という言葉となって、私たちにはたらきかけていて下さるのだとお釈迦さまは説いておられます。

 ところで、この南無阿弥陀仏という仏さまのはたらきを何とか言い当てようということで、様々な表現が用いられていますが、その一つが「尽十方無碍光如来」です。

この中の「尽十方」とは、東西南北(及び北東・北西・南東・南西)、上下、つまりすべての世界にこの仏さまの光が満ち満ちているという意味です。

 ただし、たとえ世界中のすみからすみまで走り回って、なるほどどこへ行ってみても、確かに光は満ちていましたということを明らかにしたとしても、この言葉が単にそれだけの事柄を述べているのだとしたら、あまり意味のないことだと言わざるをえません。

そうではなくて、「尽十方」という言葉には、光に会えるはずのないものが、そうであるにもかかわらず自分自身を光の中に見出したという感動がこめられているのです。

 したがって「尽十方」ということを証明するのであれば、世界中を走り回るのではなく、光から一番遠いところ、普通なら光が絶対に届くはずのないところ、照らされるはずのないところ、その一点において光の存在を証明すれば良いのです。

まさに、届くはずのないところまで、その光は及んでいるということによって、その光が「尽十方」の光であることが証明出来るのです。

 つまり「尽十方」というのは、遠さの自覚によってのみも具体的にうなずかれる言葉だといえます。

それ故、仏法からもっとも遠いものとして自分を見出したものが、同時にしかも既に光のうちに包まれている自分を知らされたという「歓喜」を物語る言葉なのです。

思うに「有り難い」という喜びの心は、このようにまでしてもらえるはずのない私だという恥じらいの心と、しかも今それをわたしは身に受けているという喜びの心、その二つの思いが同時にどこまでも深まっていく心だといえます。

なぜなら、自分にはしてもらう資格がある、してもらって当然と思う心には、有り難いなどという思いなどおこるはずはないからです。

この「尽十方」の世界は、まさにこの「有り難い」世界、恥じらいの心と喜びの心が共に限りなく深められていく世界だと言えます。

このことを親鸞聖人は

「南無阿弥陀仏の尊い願いをよくよく思いはかると、この願いはひとえに私のような救われがたいものを救おうとするための、言うなればこの親鸞一人がための願いであったのだ」

と嘆じておられます。

この心の根底にあるのは

「どのように学問に仏道修行に一心に励んでも、自身では迷いの心を断ち切れない、まさに悪業のみしか成し得ない自分」

であることへの痛みと自覚です。

このように、どう考えてみても仏法の光に包まれるはずのないこの身であることへの自覚が、そうであるにもかかわらず今、南無阿弥陀仏の光に照らされているということを歓喜させるのです。

思うに「弥陀の手の中」にある自分を自覚することも、具体的には聞法を重ね「唯、念仏」することによってのみうなずかれるのではないでしょうか。