「親鸞聖人における信の構造」 1月(中期)

(1) 獲信の過程

親鸞聖人の主著は『顕浄土真実教行証文類』ですが、この題名は、浄土真実の「教行証」を顕わす書物という意味です。

全ての仏教は「教と行と証」という三つの綱格から成り立っています。

「教」とは釈尊(お釈迦さま)の教えを指します。

釈尊は人々に悟りへの道を説かれました。

したがって、その教えの通りに道を歩けば、誰でも「仏陀−覚者」になります。

その覚者になる教えが「教」です。

「行」とは、釈尊の教えに従って歩む、行者の行道を意味します。

そこで、行道にとって最も重要なことは、行者がその教えを、教えの通りにいかに信じることが出来るかどうかにかかっています。

教えの通りに信じて、その通り行じた者のみが、よく証果に至ることが出来るからです。

「証」とは、行を完成したその結果であって、そこで初めて釈尊と同じ悟りを得ることになります。

とすれば「教行証」のうち、仏教者にとっての中心は「行」ということになります。

行者は、教えをその通りに信じて、教えに順じて一心に行道に励むことが何よりも重要になります。

この場合「証」は、真実の心で懸命に行道を維持し続ける結果に過ぎないからです。

さて、親鸞聖人はこの書で、仏教の教行証の内、「浄土真実の教行証」を顕すと述べられます。

そうすると、ここで「浄土真実」という言葉の意味が問われます。

中国の浄土教者・道綽禅師は仏教の全体を聖道門と浄土門とに二分されました。

聖道の仏教とは、この世において悟りを得ることを目指す仏教であり、浄土の仏教とは、この世で悟ることが不可能と自覚した者が、次の世に阿弥陀仏の浄土に生まれて、悟りを得ることを願う仏教です。

そうすると、親鸞聖人のこの書は、聖道の「教行証」を問題にしているのではないという点にまず注意する必要があります。

ところで、親鸞聖人は「浄土の教行証」ではなく、「浄土真実の」とわざわざここに「真実」という言葉を補っておられます。

ここに浄土教における親鸞浄土教の特徴があります。

また、親鸞聖人は浄土教に方便と真実という二種の浄土教の在り方を見出されます。

人は直ちに真実に至ることは出来ません。

真実に至るためには、至るための何らかの方法、手段を必要とします。

その真実に至らしめるための「仮の浄土教」と、方便によって知りうる「真実の浄土教」の内、今ここに示しているのは、真実の浄土教の「教行証」だと言われるのです。