「親鸞聖人における信の構造」2月(前期)

 親鸞聖人は『教行信証』の『教巻』の冒頭で

「謹んで浄土真宗を按ずるに二種の廻向あり。

一つには往相、二つには還相なり。

往相の廻向について真実の教行信証あり」

と述べられます。

浄土真宗という仏教は、阿弥陀仏の二種の廻向によって成り立っていて、一は阿弥陀仏が衆生(生きとし生けるもの)を浄土に往生せしめる廻向のはたらきであり、二は浄土に生まれた衆生を再び穢土に還来せしめる阿弥陀仏の廻向のはたらきだといわれるのです。

そして、往相の廻向に、真実の教と行と信と証があるのだと示されます。

そうだとすると、浄土真宗の「教行証」とは、教が「阿弥陀仏」の仏教となり、行も阿弥陀仏が衆生を浄土に往生せしめる行為、そして証までもが阿弥陀仏によって成就された証果ということになり、前二者の仏教とは本質的に大きく異なってしまいます。

しかもここに「信」が関わってきます。

この信には二重の構造があって、如来の大信を人々が獲信するのです。

その獲信とは、阿弥陀仏から廻向された「教行信証」の一切を、私が獲得する瞬間を意味しています。

そうしますと、浄土真宗では、阿弥陀仏が廻向された法を私が獲信するのですから、その両者の出遇いの場には、時間の流れは見られません。

教においても行においても大きく異なった仏教がここに出現することになりますが、それがなぜ仏教一般が意味する「証果」と同一の証果になるのでしょうか。

また、なぜ同じ仏教だと言えるのでしょうか。

その答えは、親鸞聖人の信の構造の中で明かされることになります。

そこでまず、親鸞聖人が浄土真宗という仏教に至るまでの過程から見ることにします。