「親鸞聖人における信の構造」2月(後期)

浄土教の念仏者は、聖道の仏道に破れた者ですから、この世での悟りではなく、浄土への往生を願って、そこでの悟りを求めています。

したがって一心に仏道を行じ悟りに至りたいとの心は、聖道門でも浄土門でも、全く同じです。

その浄土教者に阿弥陀仏はいま

「念仏せよ、そこにあなたの往生の道がある」

と教えています。

だからこそ衆生は、いまこそ喜んで阿弥陀仏の本願を信じ、自分の能力に応じた念仏道に励み、心を清らかにして、一心に念仏を称えて往生を願うのです。

『観無量寿経』は、そのような往生の道を説いています。

そこで浄土教者はまず『観無量寿経』の教えに従って、往生の行を修します。

ここで特に注意しなければならないのは、この念仏行は阿弥陀仏の本願に誓われている「念仏」と離れてあるのではなくて、本願の念仏とまさしく呼応するために、衆生は『観無量寿経』の念仏を行じるのです。

したがって、比叡山ですでに浄土教者であった親鸞聖人は、当然の仏道としてこの念仏行に励んでおられたと考えられます。

ところが、この念仏行によって、親鸞聖人は結局どうにもならない苦悩に陥ることになられたのです。

では、親鸞聖人にとって何が問題だったのでしょうか。

「真実清浄なる心でもって念仏し往生を願え」と説かれているのですが、その「真実清浄なる心」を親鸞聖人はどうしても成就することが出来なかったのです。

『観無量寿経』は、決して無理なことを人々に求めている訳ではありません。

聖者は聖者として、上品者は上品者のごとく、下品者は下品者のままで、至心に念仏を相続して、一心に往生を願えと勧めているに過ぎません。

下品下生者の場合は、悪行のためにその臨終は苦悩に苛まれています。

そこで、この悪業から逃れるために、

「今こそ一心に浄土を願って念仏を称えよ」

と教えられるのです。

けれども、果たして愚悪なる凡夫に、真実の一心があるかを親鸞聖人は問われます。

そして、その不可能性を知ったとき、親鸞聖人はどうにもならない苦悩に陥ってしまわれたのです。