『張りすぎた糸は すぐ切れる 柔軟心(にゅうなんしん)』

 釈尊は、まじめに一心に修行し、足の裏から血を出すほど痛々しい努力を続け、道を求めながら、しかもなお悟りを得ることができずに苦悩している、弟子のシュローナに次のように語られました。

「シュローナよ、あなたは家にいた時、琴を学んだことがあるであろう。

糸は張ることが急であっても、また緩くても、よい音は出ない。

緩急よろしきを得て、はじめてよい音を出すものである。」

この釈尊のお言葉は、釈尊ご自身の修行の過程と重なっているように思われます。

よく知られていますように、釈尊は悟られる前、六年の間、ついには肋骨(ろっこつ)が見えるほどの難行・苦行を行ぜられました。

けれども、結局、悟りは得られず、この苦行の無意義を知って行を中止し、尼連禅河で沐浴し、村の娘が捧げる牛乳の粥で力を回復し、菩提樹のもとで瞑想して、ついに悟りを得て、仏陀・釈尊になられました。

この苦行を捨てて瞑想に至るまでが、釈尊の説かれる

「緩急よろしきを得」た場

だといえるように思われます。

では、ここでまさしくよい音が出るように「糸を張る」という点について考えてみます。

この場合、張ることに急であっても、緩やかであっても、だめだとされるのですが、ではどうすればよいのでしょか。

もし張ることが急であってはならない、という点が気になって、最初から糸を緩く張ろうとすればどうでしょうか。

これは張り方が中途半端になって、よい音は絶対に出ないはずです。

これは修行でもまったく同じです。

最初から力んではならないと、手を抜いていたのでは、何ら効果は上がりません。

琴の糸を張る場合、最初はできる限りまでピーンと張ることが大切で、張った後に、微妙にほんの少し力を抜く、糸を緩めることが求められるのです。

これは、例えばスポーツ選手が大切な場面で、力まないで肩の力を抜いて、よい結果が得られる場合もまさにそうです。

選手はあらゆる場面を想定して、心身を極限まで痛めつけて、どのような局面でも必ず成功するまで繰り返し練習を重ねているからこそ、実際の試合では肩の力を抜くことによって、練習の成果を十分に発揮することができるのです。

ところが、それを肩の力を抜くことばかり考えて、練習そのものをいい加減にしていたのでは、試合で肩に力が入り、よい結果を残すことは難しくなります。

私たちは

「張りすぎた糸はすぐ切れる」

と聞くと、ともすれば懸命に努力することを放棄して、つい安易な道を求めてしまいがちです。

けれども、大切なことは、何も努力をしないで成果を手にしようすることではなく、道を求めて一心に努力する中にこそ、柔らかな心の大切さに気づく世界が開かれることに心寄せることではないでしょうか。