「親鸞聖人における信の構造」6月(前期)

 ここにおいて、親鸞聖人の思想には、なぜ自らの力による往生のための行を求めないかが明らかになります。

迷える凡夫には、本来的に清浄真実なる心は存在しないからで、真実の心がなければ、真に阿弥陀仏を信じる心は生じませんし、純粋な心で往生を願う念仏も称えることは出来ません。

したがって、もしこの愚かな衆生に対して、阿弥陀仏が本願にその衆生を摂取するための条件として、信じ方や行じ方を求めたとすればどうでしょうか。

真実の信も行もない衆生を救うための本願に、真実の信や行を成就せよと誓われていれば、その本願は

「具悪なる衆生は救わない」

という本願になってしまいます。

けれども、本願がそのような矛盾を起こすことは決してありえません。

したがって、阿弥陀仏が本願に、衆生を救うための条件として、信じ方や称え方を求められることはありえないのです。

「南無阿弥陀仏」と称える。

その念仏が阿弥陀仏が衆生を摂取している大行なのですから、称えるその時に、無条件で衆生の迷いの心の闇は破れ、悟りへの志願は満たされているのです。

では、衆生はただ口先で南無阿弥陀仏を唱えれば、それで衆生の往生は決定するのでしょうか。

宗教的実践において、その行為に自分の心が関わらない宗教は存在しません。

救いの心が成り立たないからで、称えている念仏に自らの全人格が関わり、念仏の真実を信知して、心の奥底から歓喜に包まれなければ、やはり往生の決定はありません。

その歓喜する心が信心なのです。

では、愚かな凡夫にこの信心はどのようにして生じるのでしょうか。