「親鸞聖人における信の構造」7月(後期)

 一般には「念仏の教え」そのものよりも、教えを聞いている親鸞聖人の心や、親鸞聖人はどのように教えを聞かれたかに関心が寄せられることが多くあります。

また、親鸞聖人が得られた信心の喜びとはどのような心か、その喜びは自分にも得られるのかといった、親鸞聖人の体験談が興味の中心になることもしばしばあります。

けれども、大切なことは親鸞聖人の体験談ではなく、親鸞聖人を獲信せしめるために、法然聖人はどのような教えを説かれたのか、その教えの内容こそが重要なのです。

それは、阿弥陀仏とはいかなる仏か。

その阿弥陀仏から廻向される南無阿弥陀仏とは何か。

それはいかなる大行か。

その教えは、どのようにしてこの世に出現し、親鸞聖人に伝えられたのか。

これらの点について、求め聞き知っていかなくてはならないということです。

 親鸞聖人が聞かれた教えの内実を示せば、その大意は次の通りです。

 阿弥陀仏とはどのような仏か。

無限に輝く光によって、一切の時間と空間を覆い、そのなかの迷える一切の衆生を仏になさしめる仏である。

したがってこの仏が最高であり、最高の仏とは真如そのものであって、法性とも仏性とも虚空とも呼ばれ、本来的にこの仏は「相(すがた)」を持たない。

けれども最高の仏こそ、完全なる智慧によって、一切の迷える衆生を見出し、完全なる慈悲によって、その愚かな衆生を救い続ける。

ただし真如のままでは凡夫は救えない。

凡夫は真如を知ることが出来ないからである。

それ故、凡夫が求める前に、真如が「相」を示し、凡夫の心に来らねばならない。

その「相」こそ、真如からの言葉となる。

真如が一切の衆生を救いたいと願って発願し、発せられた言葉が「南無」であり、無限の智慧と慈悲の仏が、その迷える衆生を救うための「はたらき」、大行を示す言葉が「南無阿弥陀仏」である。

 この故に、南無阿弥陀仏を称えるその時、称えている衆生は、南無阿弥陀仏によって、真如と完全に一体になっている。

それは「南無阿弥陀仏」とは、衆生が阿弥陀仏に南無する(救ってほしいと願う)ことであるが、その根底で、それに先立って阿弥陀仏が衆生に対して、南無(念仏せよ、あなたを救うと呼びかけ)し、大行となって衆生の心に来たっている事柄にほかならないからである。

 だが、残念ながら愚かな凡夫は、自力のみではこの南無阿弥陀仏の真実を聞くことも知ることも出来ない。

ここに釈尊の出現が絶対に必要となる。

釈迦仏のみが、この世において「南無阿弥陀仏」の真実をよく知りうるからである。

 そこで釈尊は、釈迦仏の国土の一切の衆生を救うために、浄土往生の行である

「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏の救いの法)」

を説法される。

この法を伝達される釈尊の行為が、釈迦仏の大行、すなわち「浄土真実の行」になる。

そして、その説法の内実である

「南無阿弥陀仏」

が、阿弥陀仏自身が直接衆生を救う、

「選択本願の行」

になるのである。

この南無阿弥陀仏の真実が、釈尊から法然聖人に伝達された。

法然聖人のその法の説法によって、親鸞聖人は獲信されたのです。

 以上が、4月〜6月に述べた事柄の概要です。

では、親鸞聖人にとって、信心とはどのような心か。

これが来月からの問題になります。