『よろこびは分かち合って さらに深まる』

南無阿弥陀仏という仏さま、そのはたらきによっていろいろな言葉で呼ばれていますが、その一つに「尽十方」という表現があります。

十方とは、東西南北、その間と上下を意味する言葉で、いうなれば全ての世界ということです。

したがって「尽十方」とは、「全てを尽くす」という意味でしょうか。

それは、また

「全てを分けへだてなく照らす」

ということだともいえます。

 ところで、あなたは、今年流行の新しい洋服を買って、それを着て颯爽と街に出た時、向こうから見知らぬ人が全く同じ服を着て歩いて来たとしたら…、いかが思われますか。

特に女性の方は、あまり嬉しい気持ちがしないのではありませんか。

また、あなたが学生だったとして、テストで頑張って百点をとったのですが、クラスの大半の人達も百点だった場合と、たとえ八十点であったとしても、それがあなた一人でしかもクラスの最高点であった場合とでは、どちらの時に喜びを感じると思いますか。

おそらく…、点数は低くても後者なのではありませんか。

 実は、私たちの心は「尽十方」などひとつも有り難くないのです。

私だけが、つまり「尽一方」であることこそが何よりも嬉しいのです。

しかしながら「尽一方」の世界では、常に自分と他人とを比較し、自分より下のものを見ては

「自分は幸せだ」

と感じ、反対に自分より上のものを見てはその人をねたんだり、口惜しがることに終始するばかりで、心がやすまり、心から喜ぶということはなかなか出来ません。

 このように、私たちの意識は多くの場合、尽一方の世界にあこがれ、その世界に入ることばかりを望み、そのためにあれこれ苦労もしているのですが、この身に賜っている人間としての私の「いのち」そのものは、実は尽十方の世界を願っているのです。

 なぜなら、私たちはどんな時も、その喜びを分かち合える誰かがいない時には、かえって空しさを感じるからです。

「人間としての喜び」

は、どのような喜びであっても「共に喜ぶ」というところにあるのです。

そして、私の「いのち」そのものは、常に共に喜ぶことを願っているのです。

 だからこそ、逆にどのような悲しみに陥っても、それを一緒に悲しんでくれる人がいると、その事実のみによって潰れたりすることはなく、人はその深い悲しみに耐えてもいけるのです。

 このように、私たちの意識はいつも尽一方の世界ばかりをあこがれているのですが、私たちの「いのち」そのものは、尽十方の世界をこそ真に求めています。

 だからこそ、「よろこび」は誰かと分かち合って、さらに深まっていくのだといえます。