『お浄土 すべてのいのちが輝く世界』

 経典の中に「耳目開明」「心得開明」という言葉で出てきます。

これは、お浄土を表す言葉だといわれています。

耳が開くということは、言葉が通じるということ、また言葉が通じるということは、心が通い合うということです。

そして、目が開くということは、事実のありまのままが見えるということです。

これらのことから窺い知られるのは、お浄土とは周囲の人びとと心が通い合い、ありのままが見えてくる世界だということです。

 振り返ってみますと、私たちは日々の生活において、出会う人をなかなか一人の人間として見ようとすることは少ないものです。

具体的には、私の思いに先立ってその人のことを肩書で見たり、あるいは経済力とか社会的地位などで見てしまいがちです。

あるいは、自分の好みでその人のことを一面的に評価してしまったりすることさえあります。

このように、すべてを自分だけの一方的な見方でとらえ、自分の思いにとじこもる在り方を仏教では「執着」といいます。

 また、経典には「心塞意閉」という言葉が出てきます。

「心をふさいで、思いをとじる」

ということですが、考えてみますと、人間はどのような苦しみに出会っても、そこに語り合える友だちがいるあいだは、絶望することはありません。

どんなに苦しい問題に直面していても、それを共に語り合う友を持ち、信じられる世界を持っている人は、決して絶望することなどありません。

 けれども

「誰に言ってもどうにもならない」

という、自分だけの思いに閉じこもったときに、人は絶望をするのです。

まさに、心を塞ぎ、思いを閉じた時に、人は救いのない、抜け場のない、言いようのない孤独な在り方の中に落ち込んでいくのです。

 ところで、考えてみますと、世の中に「苦しい世界」がある訳ではありません。

事実は、一つの世界を私は苦しいものとして生きているということがあるだけです。

したがって、同じような状態を、他の人は生きがいのある世界として生きているということもあります。

また、私自身にあっても、今まで苦しみしか感じなかったその世界が、楽しいと感じられるようになることもあります。

 同じような環境にあっても、そこに大きな問題を荷なって生き甲斐をもって生きている人もあれば、逆にただ愚痴(ぐち)ばかりを言って、世の中を呪っている人もあります。

つまり、与えられている状況を、自分自身で苦しいもの、または楽しいものとして受けとり、それぞれに生きている事実があるだけなのです。

 このような意味で、私たちが生活の中に浄土を見出し、常に浄土を心のよりどころとして生きて行くということは、苦しみにおいて常に自らの事実を明らかに受け止め、楽しみにおいて常に人と共に出会っていける生き方が私の上に開かれてくるということです。

言い換えると、自分の事実をどこまでも引き受けていける、そういう場所をもつということ。

同時に、すべての人びとと喜びをともに分かち合っていける心が開かれてくることによって、私たちは自らのいのちを輝かせながら、この生涯を十分に生ききることが出来るのだと言えます。