「親鸞聖人における信の構造」10月(中期)

 親鸞聖人が説かれた念仏の教えの最大の特徴は、ただ信心のみで阿弥陀仏の浄土に生まれ仏になるという思想です。

それは、行道の一切が衆生の側で成り立たず、往生のための行業

「南無阿弥陀仏」

が阿弥陀仏から廻向されるが故に、その念仏行を信じるのみで、往生が可能になるという教えです。

では、なぜ

「南無阿弥陀仏」

によって、往生が可能になるのでしょうか。

第十八願には「至心信楽欲生」の三心と、

「乃至十念」が誓われています。

「十念」とは

「十声の称名」のことですが、

「乃至」という言葉にはどのような意味があるのでしょうか。

親鸞聖人は、

「乃至」を阿弥陀仏が衆生に対して

「一切の計らいを捨てよ」

と願われている言葉なのだと捉えられます。

衆生は念仏を称える時、必ず、自分の心の状態、念仏を称える場所、称名の数の多少、あるいは声の大小といったことを問題にします。

ところが、このような

「はからい」

こそ、まさに自力の心にほかならないのです。

そこで阿弥陀仏は「乃至」の言葉によって、衆生の

「はからい」の一切を根源から断ち切っておられるのです。

だとすれば

「乃至十念」から「十」という数の義が消えて、

「十念」は

「ただ念仏して救われよ」

と願われる弥陀からの音声となります。

つまり、私たちが称えている

「南無阿弥陀仏」

とは、この私を往生せしめるための弥陀廻向の念仏なのです。

それ故に、善導大師は第十八願を

「念仏往生」

の願だと見られたのです。

ところで、この念仏は単なる音声が、弥陀から衆生に来ているということではありません。

その念仏の声が、弥陀の願心から発せられた招喚なのであれば、

「南無阿弥陀仏」

はまさしく弥陀の三心そのものだと言わなくてはなりません。

阿弥陀仏の衆生を救う大信心が、念仏となって衆生の心に来たっているということなのです。

だからこそ、念仏する衆生は既に阿弥陀仏の大悲心に摂取されているのだと言えます。

では

「疑いなく慮りなく、かの願力に乗じる」

とはどういうことなのでしょうか。

これは必死になって阿弥陀仏を信じ、その願力に乗じようとする心を意味しているのではありません。

そうではなくて、念仏の衆生は、すでに阿弥陀仏の願力に乗じているからこそ、衆生は阿弥陀仏に対して、全く

「はからう」

必要はないという意味なのです。

それは

「自らの心に真実の心無し」

と知ると同時に、本願の三心の真理を知ることによって生じる心だといわなくてはなりません。

この衆生の姿の真理と、阿弥陀仏の大悲心の真実を知る心が、信心の内実を物語る

「二種深信」

と呼ばれる心です。