最近、だいぶ前に本願寺新報に掲載されていた、コピーライターの糸井重里さんの記事に

最近、だいぶ前に本願寺新報に掲載されていた、コピーライターの糸井重里さんの記事に触れました。

それは、糸井さんがある時に、ふと信号待ちをしている人々を眺めて思ったことが書かれている内容でした。

宗教の真贋(本物と偽物)を見分ける基準に、この信号待ちをしている人々を全て救いの対象とできるかどうかである、といったような内容でした。

 先日、東京に行く用がありました。

夕方街に出て、目の前を私の町の人口以上の人たちが行き交っている様子を見ながら、ふと

「それぞれの人にそれぞれの人生があり、それぞれの世界を生きているんだな」

と、ぼんやりとした不思議な気持ちになりました。

おそらくは、この先一生会うこともない目の前の人たち。

生まれたところも、育った町も、出会った人も、全く一緒の人は一人もいない。

そんな人の集まりが、この人たちなんだなと。

そして、何千人という人たち、一人一人にそれぞれの人生があり、夢や希望、悩みや不安もまた、人の数だけあるにちがいないと…。

 その時に、先の糸井さんの記事が心に浮かびました。

「全ての人々をすくう」

という、とてつもないことを思い立って、その準備を万端整えて待っていてくださるのが阿弥陀如来という仏さま。

糸井さんの、真贋を見分ける基準が

「言い得て妙だな」

と、ひとりしばらくたたずんだことでした。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。