『わが思いどこまでも転ぶ仏手(みて)の中』

 生きるということは、必ず何かしらの思い(望み)を持っているということではないでしょうか。

何故なら、まず生きたいということ自体が「思い」なのですから。

 その思いは、他にも物欲であったり愛欲であったりするかもしれません。

しかし、自分の思い通りになっている間は楽しいと感じますが、少しでも思い通りにならなかった時に、人はそれを苦しいと感じるのです。

 思いを持つということは、決して悪いことではありません。

思いによって人は生きる活力を得ていることもあるのですから。

ただ、その思いが自分勝手で不確かなものであるということに気付かなければ、結局は空しい人生となることでしょう。

 お釈迦さまはご臨終の際、弟子たちに「自灯明、法灯明」というお言葉を残されました。

「自灯明」

とは、

「自らをともしびとし、自らをよりどころとして生きないさい」、

「法灯明」

とは

「仏法をともしびとし、仏法をよりどころとして生きなさい」

ということです。

 つまり、悔いのない人生を送ろうと思うならば、どんなことがあっても変わることなく、裏切ることのない確かな大地(仏法)を自らしっかりと踏まえなさいということです。

 思えば、誰もが自分自身をよりどころにして生きています。

けれども、人生に行き詰まって、その自分があてにならないものだと知らされたとき、仏法をよりどころとしているならば、決して絶望することのない人生を送ることが出来ます。

 仏法をよりどころにするということは、順境にあっても楽しみにおぼれることなく、逆境に陥っても悩みや苦しみにつぶれることなく、むしろそれらを縁としてまことの慶びに目覚め、それを頂いていけるということです。

 「わが思い」

がどこまで転んでも、しっかりと手の中に摂め取って、

「この仏をあてにしてくれよ」

と喚び続けてくださっておられる確かなよりどころを頂きながら、悔いのない人生を送りたいものです。