「親鸞聖人の他力思想」11月(前期)

今回から

「親鸞聖人の他力思想」

について、しばらく考えて参ります。

さて、私たちは日常

「他力本願」

という言葉を使ったり、聞いたりとかしていますが、一般にこの言葉が使われる場合は、その多くが本来の宗教的な意味とは異なる間違った解釈のもとに使われているといわれています。

そこで、そのような間違った使われ方がマスコミを通して広く流されますと、その都度、浄土真宗の教団では

「他力本願とは、そのような意味ではない」

と抗議しています。

なぜなら、浄土真宗の教えの根幹を成す

「他力本願」

の教えが、世間一般において誤った用法で使われることを見過ごしにしていたのでは、誤解がさらに浸透していくからです。

ところで、このような努力はとても大切なことですが、けれどもここでは間違った用法を否定的な方向から一刀のもとに断罪するのではなく、なぜこの言葉がしばしば間違った意味で使われるのかということについて、教団全体の信仰の在り方と絡めて、問い直してみたいと思います。

2002年5月16日にオリンパス光学工業という会社が、全国紙といわれる朝日・読売・毎日・産経の各新聞に

「他力本願」

という言葉を用いた広告を出しました。

そこには

「他力本願から抜け出そう」

というキャッチコピーが掲載してありました。

つまり

「他力本願ではだめだから、そのような生き方から抜け出そう」

と呼びかけたのです。

これに対して、西本願寺はさっそく抗議をしました。

また、2002年6月1日の

「本願寺新報」で

「それは他力本願の誤用である」

として、他力本願について次のような説明を行いました。

『他力本願は、世間では普通、他人の力を借りる、他人の力を当てにする、というふうに使っていますが、そうではありません。

本当の意味は

「阿弥陀仏の本願力をたのむこと」

です。

』と。

けれどもこの説明では、一般の人にしてみれば

「では他人の力に頼るのと、本願力に頼るのとでは、どこがどのように違うのか」

という疑問がわいてきます。

また

「本願力に頼る」

と説明されても、その本願力の姿は具体的には見えません。

そうしますと、一般の人にとって

「他力本願」とは

「他人の力を当てにする」

といわれる方が、よほどわかりやすい表現に思えるかもしれません。

ですから、どれほど懸命に

「他力とは本願力に頼ることです」

と説明しても、それはではいったい

「本願力に頼るとはどのようなことなのか?」

ということについての、具体的な説明がなされなくては、やはり極めて不十分な説明だと言わざるを得ないことになってしまいます。