「音楽あれこれ」(上旬)人生には逃してはいけないタイミングがある

======ご講師紹介======

寺薗玲子さん(鹿児島女子短期大学教授)

☆ 演題 「音楽あれこれ」

ご講師は、鹿児島女子短期大学教授の寺薗玲子さんです。

鹿児島大学教育学部音楽科、ウィーン国立大学ピアノ伴奏科卒業。

昭和52年から58年まで、鹿児島県育英財団留学生としてオーストリアのウィーンに留学。

さらに、昭和62年から1年間、再度ピアノ伴奏法の研究のため渡欧されました。

ピアノリサイタルをはじめ、歌曲伴奏や室内音楽など国内外で活躍。

CDも発表しておられます。

また、昭和63年度鹿児島県芸術文化奨励賞受賞。

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私の音楽のことについてお話しさせていただきます。

小学校3、4年生のころだったかと思いますが、生まれて初めてコンクールというものを聴きに行きました。

今も続いております

「南日本音楽コンクール」

が、当時の山形屋で行われていました。

そこで、高校生のお姉さんが出てこられて、中国地方の子守歌だったと今でも記憶しておりますが、

「ねんねんこ しゃっしゃりませ」

と、澄んだ美しいソプラノの声で歌われました。

私はすっかり魅了されまして、審査委員長になった気持ちで

「うん、このお姉さんが一番」

と、興奮して帰りました。

「このお姉さんと一緒に歌が歌えて、ピアノが弾けるようになったら、どんなに楽しいだろうな」

と、小学生の私は強く思いました。

その翌日か、翌々日に新聞に掲載されたコンクールの第1位は、そのお姉さんではありませんでした。

「聴く耳がないな」

と、私は密かに思ったものです。

ところが、数年たって新聞に

「ウィーン留学。田畑、屋敷を手放して」

という大きな記事が出ました。

それが、あのときのお姉さんでした。

この方こそ、鹿児島の生んだ世界的なソプラノ歌手、片野坂栄子さんだったのです。

私の片野坂さんとの一方的な出会いから、その後30年余りたち、こせ一緒に演奏させていただくことになる訳ですが、これもまたご縁だと思いました。

高校3年生の6月頃になって、ようやく音楽の道に進もうかなと思うようになり、当時鹿児島大学で教鞭をとっておられました西勇恕先生の門をたたき、教えを頂くことになりました。

そして、鹿児島大学に入り、そこで有馬万里代先生の伴奏をさせて頂く機会をもらい、伴奏がとても面白いと感じるようになりました。

また、私は演劇や美術に見に行くことが大好きで、いつも光る脇役に憧れておりました。

ですから、このピアノの伴奏という仕事は、まさに自分の大好きに仕事になっていきます。

さらにこのころ、世界的な名伴奏者、イギリスのジェラルド・ムーアという人の書いた

『伴奏者の発言−恥知らずの伴奏者−』

という一冊の本と出会います。

これが私の伴奏者となるきっかけです。

伴奏の魅力に取りつかれ、1977年の春、職を辞しまして、ウィーンに留学することになります。

人生の中には幾つかこれを逃してはいけないというタイミングがありまして、今は亡き教育者の有馬純次先生にご相談をいたしました。

すると

「君はいったい幾つになるのかね」

とおっしゃるので、

「29歳です」

と申しましたら、

「いやぁ、それはもう遅いよ。もう、だいたい仕上がる年齢だ」

と言われました。

それでも

「いや、やっぱり行きます」

と申し上げたところ、

「金はどうするんだ、金は」

と言われますので、

「父の退職金があるから大丈夫です」。

両親の全面的な援助も得て、ウィーンに行ったのです。

モーツァルトおベートーヴェンやシューベルトなど、数えきれないほどの音楽家たちの足跡を、街のいたるところで窺い知ることが出来るのは、ウィーンならではの大きな魅力です。

9月初めから翌年の6月30日まで、毎晩繰り広げられるオペラ劇場でのオペラやオペレッタ、そして音楽会。

世界超一流の音楽家のお会いすることができ、毎日のように聴けるのですから、何より幸せなことでした。