「親鸞聖人の他力思想」3月(後期)

では、私たちにとって

「生きる」

とはどういうことかが、ここで問題になります。

私たちは今、人間として生きるために、何を必要としてかを考えてみます。

人間が生きるために必要なものは一つしかありません。

生きるという面のみを考えれば、大切なものは一つです。

自分の人生は

「幸福」

であればよいのです。

これ以外に生きる意味はありません。

人は誰もが幸福に生きられればそれで良いのです。

そこで、幸福な生き方となりますと、私たちはそれとストレ−トに関わってきますので、誰もが必死になって学び、聞き、その幸福な人生を得ようと努力するのです。

ではいったい、幸福とは何かということになります。

この点は、お釈迦さまがはっきりと示しておられます。

人間にしっていちばん重要なことは、若さを保つこと。

それから若さを保って健康であること。

そして健康であって、自分の願いが全て叶えられることです。

これが幸福の全てだといえます。

ですから、自分自身がいつまでも若く元気であって、そして思っていることが叶えられる。

つまり豊かで楽しく、快適で和やかな生活ができるということが幸福な姿になるのです。

では、その幸福な生き方を、現代人は何に求めているのでしょうか。

これは言うまでもなく

「科学の力」

に求めています。

「宗教の力」

によってではなく、現代人の多くは、科学の恩恵によって幸福を得ようとしています。

ですから、この点については、誰もが関心を寄せて、若さを保つためにはどうすれば良いかということになると、やはり科学的なはたらきをほしがる訳です。

いつまでも老いないためにはどうすればよいか、病んでもすぐに治る、これも科学の力です。

死もまた科学によって、その恐怖をなくそうと思っているかもしれません。

とにかく、全て、科学の力によって幸福を得ようとしているのです。

ところが、残念なことに、その科学によって幸福を得ようとしている人が、科学によってとんでもない不幸に陥ることがあるということです。

科学の恩恵によって幸福を得ようとしていたのに、逆に科学に裏切られて、科学のためにどうしようもない悲惨な人生になることがあるのです。

そのような場合、科学の力によって幸福を得ようとしている人間は、科学を超えた力を求めようとするようになります。

ここで、初めて宗教の救いが必要とされてくるのだと思います。

ですから、現代のひとつの大きな問題点は、科学の力によって救いを求めようにとしているのですが、その方向において破綻した者は、宗教によって救いを求めようとしているということです。

現代人にとっての宗教は

「科学的な力の隙間を埋めるもの」

と考えられているのではないかと推察されます。

現代人の求めているものは

「人生の幸福」

です。

そうしますと、人生の幸福を科学によって求め、それに破れた者は宗教によってそれを得ようとしているといえます。

つまり、いずれにせよ、人生の幸福を求めているのが、今の私たちの姿だということになります。