『無明すべて分かったつもりの心』

「無明」

という語句を『真宗新辞典』でひくと

「真理にくらく、事象や道理を正しく理解できない精神状態で、愚癡をそのすがたとする。

真宗では、本願を疑い仏智を明らかに信じないことを指す。

如来の本願力、仏の光明は、無明の闇、無明の夜を破り、無明の樹を截り、無明の海水を転じて大宝海水と成し、無明の病を治する」

とあります。

私たちは、数え切れない多くの命の中から不思議にも人として生まれてくることができました。

しかし、それを尊ぶどころか当たり前のように思い、時には

「生まれてこない方がよかった」

などと不平不満を言うことさえあります。

1人で大きくなったような顔をし、あの人がどうだ、この人がどうだ、あれが欲しい、これが欲しい。

そして、少しのことで腹を立て、人様のことをすぐに羨み、感謝しようとせず愚癡(ぐち)ばかりを言っています。

阿弥陀仏の光明は、このような煩悩だらけの私たちにももらさず行き届き、いつでもどこでも

「あなたを救わずにはおかない。必ず仏にしますよ」

と、包み込んでいて下さいます。

阿弥陀様の教えとは、決して死ぬ時までの準備ではなく、これから先どのように生きるかを問いかけ、私の生きる喜びを教えてくださいます。

楽しい時も悲しい時も、元気な時も病気の時も、若い時も年老いてからも、死にたいくらい辛く苦しい時も、決して見すてず放されることのない大きな大きな阿弥陀様の願いの中に包まれている私に気づかせて頂き、生き抜く為の糧となる教えに遇わせて頂いたことを歓び、素直に

「南無阿弥陀仏」、

「南無阿弥陀仏」

とお念仏に心傾ける人生こそ本当の人生と言えるのではないでしょうか。