『いい人 悪い人 みなわたしの都合』

  わたしたちは、この世で生きる上で必ず誰かと関わっています。

関わり合う人の中には、わたしにとっていい人や悪い人もいることでしょう。

なぜなら、人間には損得や好き嫌いの感情があるからです。

だから、いい人と思っていたのに、ちょっとしたきっかけで悪い人になってしまうこともある訳です。

 実は、わたしにとっていい人とは、わたしにとって都合のいい人であり、わたしにとって悪い人とは、わたしにとって都合の悪い人のことです。

しかし、わたしにとっていい人は、和歌の人には悪い人かもしれません。

 そのように考えますと、人間の判断基準は、とてもいい加減なものだということがわかります。

 このような人間の姿を

「有漏(うろ)」

といいます。

つまり、

「漏れることが有る」

ということです。

 正しいと思って物事を見ているつもりが、わたしの都合によってどのようにでも解釈できるということです。

そこには、多くの漏れがあり、好きか嫌いかによって人を分けへだてするようなわたしが、物事を正しく見ることなど出来るはずもありません。

 それに対して、阿弥陀如来は

「無漏(むろ)」

といわれます。

つまり、漏らすことのない仏さまなのです。

そこには都合などなく、いい人悪い人と分けへだてすることのない、確かな慈悲があるのです。

 正しいと思っていた自分の眼が、都合によって変わるようないい加減なものだと気付かせていただくことによって、その自分の身を恥じて慙愧することの出来る生き方こそが、阿弥陀如来の智慧の光に照らされた念仏者の姿なのです。