「日本人の心とお念仏」(中旬) 欧米にはないもの

 年老いた母親を背負った息子が、

「お母さん、すまない」

と涙を流しながら山を登っていきますと、背中の母親が道の曲がり角になると何やらこそこそ木の枝を折っている。

母親は帰るために木の枝で印をつけているのだろうか、と思いながらも、日がどっぷり暮れるころ山奥の大きな岩陰にやってきて母をおろした。

そして泣きながら

「お母さん、申し訳ない。

どうか堪忍してや。

お母さん、帰るよ」

と、いよいよ帰ろうとした時に、母親が

「おい」

と呼び止める。

「日も暮れてきた。

帰り道でお前が迷ってはいけないから、曲がり道曲がり道に木の枝を折って落としてある。

新しい木の枝が落ちている所を探して道に迷わないように帰れよ」

と母親が言った。

「あぁ、私は考え違いをしていた。

お母さんは自分が帰るために木の枝を折っていると思っていたが、実は私が道に迷わないためだったのか。

申し訳ないこと」

と、息子は涙をながし、またその母を背負って連れ帰ったという話です。

博士は、近角先生からこの話を聞いたときに、

「うん、分かった」

と手を握って感激されたそうです。

昔の日本人の心の中にあった美徳・美学。

それは慈悲の心です。

この慈悲と愛を混同する人がいますが、愛というのは本来日本人にはなかった言葉です。

これは外来語で

「アイ・ラブ・ユー」

という意味です。

「これだけしてあげるから、これだけ返して」

という見返りを求めるのが愛で、見返りがないのは慈悲の心です。

「ヨーロッパにないものが日本にある。

それは慈悲の心、慈しみの心である」

ということが、アインシュタイン博士にわかったのです。

山に捨てられる母親が、自分を捨てて殺そうとした息子に、

「道に迷わんようにして帰れ」

という心、これが慈悲です。

交換条件ではないのです。

「愛してくれようが、私はお前がかわいくてたまらない。お前が大事だ」

と、しっかりもろ手で抱く。

摂取不捨、浄土真宗の教えの要「摂取不捨」、み仏さまの慈悲の心。

これが日本人の原点なのです。

このことを博士は、肌身に感じられたのです。

そしてもう一人は、イギリスの文学者で、ラフカディオ・ハーン。

日本名は小泉八雲といいます。

この方は、大正初期に島根県松江の高等学校の先生としてやって参りました。

この人は

『耳なし芳一』

などと優れた小説を書いて、特に日本の文化に深く帰依していますが、その中に

『日本人の心』

という随筆があります。

そして、

「天地万有のすべてのものに手を合わせて拝む心、これも欧米にはないものである」

と。

そして、日本人の心をもっとわかりやすく分解すると、一番目に

「思いやりに満ちた心」、

すべての物事に対して思いやりを持っている。

二つ目に

「思慮深い心」、

何事をするにも思慮深くする心を持っている。

三つ目は

「はなはだ情緒的なものをもっている」。

この三つが日本人の心であると、ラフカディオ・ハーンさんは、見事に喝破しております。

ラフカディオ・ハーンさんは、このように素晴しい日本人観をおっしゃったのですが、今の日本人の心は、親鸞聖人の

『歎異抄』

の中の言葉で言いますと、

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界はよろずのこと、みなもってそらごと、たわごと、まことあることなきに」

という心です。

そして「五濁悪時群生海」。

刧濁、

見濁、

煩悩濁、

衆生濁、

命濁

の五つの濁った悪い世界であると聖人は表現されています。