「親鸞聖人にみる十念と一念」9月(中期)

 さて、ここで今一度

「聞」

の意味を確かめてみます。

誰が一体、誰から何を聞くのでしょうか。

この聞の主体は、どこまでも自分自身でなければなりません。

私は、罪悪生死の凡夫であって、無明の世界を永遠に流転し続けています。

その苦悩と恐怖を知ることによって、なんとしても、この迷いを破って、覚りの世界に生まれたいと願います。

その願いが自らの心を仏法に向かわしめるのです。

このようにして仏道を学び、一心に行道に励むことになります。

けれども、私の心からは迷いは何ら消えず、かえって苦悩は増すばかりで、結局、絶望へと陥ってしまうことになります。

 では、このような私にとって、いま最も必要な仏法とはどのような教えでしょうか。

それは、苦悩のどん底にあえぐ私を、直ちにそのまま悟りに至らしめる仏法です。

そこでもし私が、この苦悩の中で、念仏の法門に出遇うことができれば、どうでしょうか。

念仏の行者が、念仏を称えつつ、釈尊によって明らかにされた

「南無阿弥陀仏」

を説法します。

弥陀の大悲は、苦悩するその者こそを救おうとしておられます。

そのためには、何よりもまず、弥陀ご自身がその者の目の前に現れ、この者の心を弥陀の浄土に向かわしめて下さる。

そこで念仏の行者が、この私に念仏を称えさせ、称えている念仏について、この南無阿弥陀仏こそ、私を摂取するための阿弥陀仏からの呼び声だと説法されるのです。

 こうして私は、南無阿弥陀仏を称え、その法を聞くことによって、弥陀の大悲に出遇います。

阿弥陀仏がいかにして本願を建立し、大行・大信を成就して、私の心に徹入しているか。

念仏して弥陀の浄土に往生せよと願われている、弥陀の声をそのごとく聞く。

この仏願の生起本末を聞き、自分がまさしく本願に摂取されていることに、疑いの余地がなくなった瞬間が、信楽の開発される時剋の極促であり、広大難思の慶心を慶心が顕彰それる時で、まさに私における聞が成就される

「信の一念」

です。

 では

「信の一念」

「乃至一念」

は、どのように関係するのでしょうか。

信の一念は、信楽を獲得し、真実の一心がこの者の心に開かれる瞬間です。

そして乃至一念は、その真実信心の相続を意味しています。

では信心の相続とは何でしょうか。

ここで

「聞其名号、信心歓喜、乃至一念」

の意味が再び問題になります。

信心歓喜は、名号を聞くことによって生じています。

名号を聞くとは、南無阿弥陀仏を称えて往生せよ、という弥陀の声を聞き信じて、その勅命に信順することです。

この点を、親鸞聖人は

「真実の信心は必ず名号を具す」

と説かれます。

名号を聞いて真実の信心を得たのですから、その心には当然、名号は具せられているのです。

しかもその声は、念仏せよとの勅命です。

そうすると、この

「乃至一念」

にみる信の相続とは、ただ念仏のみの仏道ということになります。