『仏教』

「仏教」

とは何か。

この言葉は、読み方によって大きく次の三通りの意味を見出すことができます。

一つには、仏(仏陀=ブッダ)の教えという意味です。

これは、キリスト教がイエス・キリストによって説かれた教えであるように、仏教は今からおよそ二千五百年前にインドにおいて、ゴータマ・ブッダによって説き示された教えだということです。

釈迦族の王子ゴータマ・シッダルタは、この世の苦を解決するために出家し、六年間にも及ぶ難行苦行の結果、無我の真理(縁起の理法)に目覚められ、ブッダと成られました。

ブッダとは

「真理に目覚めた方」

という意味です。

私たちはブッダのことを

「お釈迦さま」

とも呼びますが、これはブッダが属されていた種族を指すもので、その氏族の姓が

「ゴータマ」

です。

「釈尊」

という呼び名もありますが、これは

「釈迦牟尼世尊」

の略称です。

牟尼とは聖者を、世尊とは世間で最も尊い師を意味しますので、釈尊とは

「釈迦族出身の聖者で尊い師」

ということになります。

真理を悟られた釈尊の説法内容が仏教だといわれる意味がここにあります。

二つには、仏教とは釈尊が悟られた真理そのもの、法(ダルマ)の意味です。

例えば『雑阿含経』には、釈尊が目覚めた法、縁起の理法について

「もろもろの如来が世に出現しようとも、出現しなくても、この理は定まったものであり、法の確定性、法の定則性、これを縁として成立することである」

と説かれています。

すなわち、縁起とは釈尊がこの世に出現されようがされまいが、永遠に変わることのない真理だということです。

これは例えば、ニュートンが万有引力の法則を発見したことを考えると分かりやすいかもしれません。

万有引力の法則の発見以前から、リンゴは下に落ちました。

法則の発見によって、初めてリンゴが下に落ちるようになった訳ではありません。

同様に、釈尊が目覚めた真理は、釈尊が目覚めなくても真理であった訳です。

仏教が

「仏法」

と呼ばれる理由がここにあります。

三つには、

「成仏教」

としての仏教の意味です。

釈尊がこの世の永遠の真理を悟り仏陀と成られたように、私たちも釈尊を師として同じように真理を得るために歩むことが仏教だということになります。

つまり、私が仏に成るための教えが仏教だということです。

この点は、仏教を学び、また法を聞く際に最も大切なことになります。

神の救済を説く宗教は、世界に数限りなくありますが、そうした宗教では、人はどこまでも神と絶対的に断絶したものとして説かれます。

したがって、私が神に成るということはありません。

ですから、神の存在の証明ということが大きな問題ともなる訳です。

しかし、それに対して、仏教はどこまでも真理の目覚め、真理に対する自覚に基づく救済を説く宗教であって、迷っているこの私が、仏の智慧と慈悲に育てられて仏に成ることを説くのです。

したがって、主体的な求めがない仏教というものは絵に描いた餅になってしまいます。

仏教が

「仏道」

ともいわれるゆえんがここにあります。