『どんな歩みでも無駄にはならない』

私たちはどのような生き方をしていても、失敗することもあれば、成功することもあります。

しかし、それがどちらになったとしても、自分の生きている事実そのものが

「空しくない」

という生き方は出来ないものでしょうか。

一般に、私たちは人生を生まれてから死ぬまでの

「長さ」

として考えやすいのですが、人生の本当の意味はそういう長さにあるのではなく、

「深さ」

にあるのではないでしょうか。

もし、人生が長さとしてだけしか考えられないとするなら、何らかの失敗に直面すると、そのことで人生そのものが切断されたような思いに落ち込んでしまうものです。

けれども、実は長さではなく深さなのだとすると、努力してしかも失敗したということを契機として、人生におけるさらに深い世界に目が開かれるということがあったりするものです。

では、人生の無限の深さに目を開いて行くような道とは、いったいどこにあるのでしょうか。

それを今、仏教で使われている

「修行」

という言葉で言い表されている在り方の中に見出すことが出来ます。

修行とはこの場合、座禅を組んだり、断食をしたり、滝に打たれたり…といったことを指すのではなく、言い換えとると彼方に何かを求めて行くことではなく、刻々に努力を重ねてゆくことによって、自らの身を修めて行くことです。

もし、そういう在り方が日々の生活の中で出来るとするならば、たとえ仕事や事業、あるいは就職、受験などに失敗したとしても、そこでそれまでの努力が砕け散ってしまうのではなく、失敗したことが自分にとって大きな意味を見出させる一つの契機になってくるということがあります。

ところが、人生を長さだけでしかとらえられないままでいると、それまで努力してきたことが報われなかった場合、それまでの自分の全ての努力は水泡に帰したという、絶望の中に追い込まれしまうこともあるのです。

その一方、人生そのものが修行の場であるという視点に立つことが出来れば、人生の中の失敗が、ただ単なる失敗に終わるのではなく、そのことが私たちを人生の深みに目を開かせてくれるのです。

このように、人生そのものが修行ということになれば、少なくとも私たちの人生が

「空しい」

ものになることはありません。

「必要にして十分な人生」

という言葉がありますが、失敗したということが私の人生に新しい意味を見出すために必要なことであった、悲しみは私を育てるものとして決して無駄なものではなかったということが言えるのだと思います。

考えてみますと、私たちの人生は単なる喜びだけが願わしいものとは限りません。

喜びと楽しみだけが人生の意味ではないのであって、悲しみがあり苦しみがあり、悩みがあり絶望がある。

そういうもの全体が、生きて行くということの意味を見開かせてくれるのだといえます。

そうだとすると、そのような人生においては、失敗ということはないのでしょうし、悲しみというものも、ただ悲しみたげに止まることはないと言えます。

なぜなら、私の人生にあるものは、すべてが必要なものであり、十分なものであると頷けたとき、私たちの人生は

「どんな歩みでも無駄にはならない」

ことを実感できようになるからです。