「念仏の教えと現代」4月(前期)

さて、ここで最終的な疑問が起こります。

それは、この南無阿弥陀仏がなぜ真実かということです。

ところで、実は仏教ではこのようなことは問いません。

私たちの場合、南無阿弥陀仏がなぜ真実かということから問い始めるのですが、仏教の求道の第一歩は、自分が究極的に信じることが出来るもの、あるいは究極的な真実とは何かということの追究から始まります。

けれども、仏教では真実とは何かを明らかにすることを第一義とするのです。

そこで、天親菩薩もこのことから問いを始められ、やがてその究極に現れてくる如来、それは時間的にも空間的にも無限に輝き、その根源から自分を摂め取ってくださる仏ということになるのですが、その仏こそまさに尽十方無碍光如来、まさに南無阿弥陀仏に到達されたのです。

だからこそ、真実なるものをどこまでも追究して、その結果出遇うことのできた真実とは、自分の全てを任せきることの出来る仏、尽十方無碍光如来、すなわち南無阿弥陀仏であると表白されるのです。

『歎異抄』の伝えるところによれば、この真理を親鸞聖人は

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。

と述べておられます。

親鸞聖人は、お釈迦さまの説教が本当だから阿弥陀仏をお信じになったのではないのです。

そうではなくて、お釈迦さまは悟りを開かれた時、真実に出遇われたのですが、その出遇われた真実こそが南無阿弥陀仏だったのです。

それ故に、お釈迦さまは南無阿弥陀仏の本願の真実を説法されることになったのです。

したがって、そのご説法に偽りなどあるはずがないと言われているのです。