「わが心を育てる」(中旬)お粗末な心を…

ここで、日本人は心をどこに考えたかというのが面白いんです。

日本人は、古くから文字は持っていなくても言葉は持っていた。

片仮名と平仮名は、日本人が作ったんですが、あれは漢字をちょっとひねった訳でしょ。

もしもし日本人は

「こころ」

という言葉は持っていたんですが、文字を持っていなかった。

では

「こころ」

にどういう漢字を当てていたのか。

それは

「凝」

という字を当てていたんです。

これは

「凝(こ)る」

という字です。

一番凝っているところです。

これを

「こころ」

と言った。

つまり私たちの先祖が考えた

「こころ」

は、体の一番中心の芯のところだと。

これはやはり東洋のものの考え方だと思います。

そして仏教では、二千五百年前のお釈迦さまの時代から

「こころ」

を問題にしている。

仏教では

「こころ」

を心・意・識の三層でとらえます。

これらはインド語では、

チッタ・

マナス・

ヴィジュニャーナ

と言います。

これをわかりやすく申しますと、

一番外にヴィジュニャーナがあり、

その内にマナス、

そして一番中にチッタがあります。

一番外のヴィジュニャーナ、識というのは五つあります。

目で見て心が動きます。

音を聞いて心が動きます。

匂いを嗅いで心が動きます。

口の中に入れたら甘い、すっぱいと心が動きます。

口の中に入れたら甘い、酸っぱいと心が動きます。

手に触ったらかたい、やわらかい、冷たいと心が動きます。

この五感というのが表層の心です。

仏教で言えば、これらがその時その時動いている。

そして、これを束ねる心があります。

ちょうど手首みたいなものです。

つまり、基本的に人間の表層、表面の心は六つあるわけです。

煩悩の数が百八つあるということを聞いたことがありますか。

なぜ百八つなのか。

今お話した六つの心を基礎にして、それをもう六つに割るんです。

それで三十六。

仏教では、必ず過去・現在・未来で考えます。

過去・現在・未来の三世あるから三十六掛ける三で百八つ。

これが基本の煩悩の数です。

こういう心が外にあるんです。

その中に持つ

「マナス」。

これは普通表に出ない。

とっさに出てくるんです。

これを我愛という。

一番はっきりするのは、地震で揺れたときです。

とっさにどうします。

「どうぞ、お先に」

という人はおらんでしょう。

みんなほっといて、我先じゃないですか。

これをマナスと言います。

私たちは、いつもこれをカバーしているんです。

これが教育です。

子どもの教育、家庭教育というのは、ここをどうコントロールするかということです。

たとえば、カッとなった時に押さえる心、これが出来ていないから、今の世の中は危ないんですよ。

みんなお粗末な心を持っているんです。

しかし、教育によってこれがコントロールできるんです。

犬や猫でもコントロールできます。

しつけをしたら。

しつけというのは、心が一番やわらかい小さい時に親がしとけばできるんです。

昔の人が偉かったというのは、こういうことです。