『自然 ありのままそのままに』

親鸞聖人が86歳の時に書かれたお手紙の中に

「自然法爾(じねんほうに)の事」

という表題を付けられた一文が残っています。

「自然法爾」とは、

「自」とは「おのずから」、

「然」とは「しからしめる」

ということ。

「法爾」

も同じ意味で、如来の誓いによって

「そのようにせしめられる」

のだと説かれています。

これは、私が浄土に生まれるのは、私自身があれこれ考えはからい努力して…、ということによってではなく、この私が必然的に浄土に生まれるために、そのすべてを阿弥陀仏がはからわれていることを教えようとしておられるのです。

ところで、私たちは日頃お互いにどのような人生を願っているでしょうか。

おそらく

「自分の思い通りに物事が運び、楽しく自由自在な生活が出来る」

といったようなことではないでしょうか。

けれども、ここで注意しなければならないことは、それは決して自分勝手で、気ままな人生であってはならないということです。

例えば、見知らぬ二人が一つの部屋で、何をしても良いという自由が与えられたとします。

その時、もしこの二人が自由に遊ぶため、それぞれ勝手気ままな行動をとったとすれば、いったいどういうことになるでしょうか。

たちまちこの二人は、精神的にも肉体的にも、あらゆる場面でぶつかり合って、窮屈で不自由な状態に陥ることになります。

では、どうすればこの二人は自由自在に動くことが可能になるでしょうか。

可能性はただ一つであって、二人の心身が同一の方向性を持つことによってです。

それは勝手気ままな心とはまったく逆方向なので、お互いが先ず自分だけは自由でありたいという欲望を捨てなければなりません。

すなわち、相手の心を思いはかり、相手を先として共に行動する、といった心を持つことが必要になります。

いわば、自分を極めて不自由な場に置くことによって、真の意味での自由が生まれることになるのです。

実は、この二人の関係が、無数の関係にまで広がっているのが、私たちの人間社会です。

だとすると、この社会には、楽しく思いのまま勝手気ままに生活できる場など、どこにも存在しないということが知られます。

まれに、権力のある者が他の人々を抑圧して、勝手気ままに振る舞うという生き方はあるにしても、お互いが完全に平等な立場で楽しく思いのままに生きるという生活の場は、この世には存在しないのです。

親鸞聖人が晩年に語られた

「自然法爾」

という言葉は、一般的には親鸞聖人が最後に到達された仏智不思議の世界であり、円熟した境地を表現する言葉と理解され、親鸞聖人は晩年、法に即してただ自然に、たんたんと人生を送られたのだと見なされています。

けれども、それはむしろ逆で、この世の全ては無常であって、自分の思い通りの生活など何一つ成し得ない。

だからこそ、阿弥陀仏の大いなる慈悲は、この迷える私をただ一方的に仏果(さとり)に至らしめてくださるのだと、その仏恩を深く感じておられたのだと窺われます。

まさに、阿弥陀仏の本願を信じ念仏する者を、全てのはからいを超えて、自然に浄土へ往生せしめるはたらきを

「自然」

と語られたのだと言えます。