「教行信証」の構造11月(中期)

ここで言いたいことは、世俗の幸福を求めていかに仏教を学んだとしても、悟りには至らないということです。

むしろ仏教は、世俗の幸福というものは全部破れるものだということを教えているからです。

世俗の幸福、それを具体的に言えば、

「いつも若々しさを保っていて、病にかかることもなく、経済的にも豊かであって、平穏無事な人生が送れる」

ということだと思われますが、そういうものは結局すべて破れてしまうということを教えているのが、実は仏教なのです。

したがって、その仏教に世俗の幸福を求めようとしても、決して期待するような答えは出てくる訳がないのです。

しかし、その一方、たとえ世俗の幸福がすべて破れたとしても、もし自分の心に決して破れない無限の喜びが満たされていれば、自分はもうどんなことがあっても、無限にこの法の喜びの中で生きることが出来ます。

仏教とは、この無限の喜びというものを求め説いている教えなのです。

そうしますと、親鸞聖人が『教行信証』の中で、説き続けておられることも、末法の凡夫がいかにすれば無限の喜びをもって生き続けることが出来るかということになります。

ところが、そこのところを逆にして、どうすれば自分が幸福になるかを念頭に置いて親鸞聖人の著述を読んだとしますと、その内容は

「一つも分からない」

ということにならざるを得ません。

初めにそういうことを踏まえた上で

『教行信証』

をひもといてみますと、

『教行信証』

は大きく二つの部分に分かれていることが知られます。

一つは真実を説いてある部分で、もう一つは方便について語られている部分です。

ここで言われている方便というのは、真実に至る過程のことです。

また見方を変えれば、私たちが真実に至り得ない要因を問題にしているのが、この部分であるということも出来ます。

この真実に至り得ない私たちの姿を、親鸞聖人は

『正信念仏偈』

の中で

「邪見憍慢(じゃけんきょうまん)悪衆生」

と言われ、こういう人々は真実の信心を得ること

「信楽を受持すること」

は難しいとされています。

同じ

『正信念仏偈』

の中に

「決するに疑情(ぎじょう)をもって所止(しょし)とする」

という一句がありますが、この

「疑情=疑いの心」

もまた、私たちが真実に至り得ない重要な要因だとおっしゃっておられます。

それなら、この

「邪見憍慢」

とか

「疑情」

という心は、いったいどのような心を意味するのかということになるのですが、実はこのことが

「信巻」

の重要な問題になっています。

親鸞聖人は聖道門や定散の行に励む人たちのあり方を、仏道における方便の行道として説いておられます。

「定」

というのは、定善(じょうぜん)のことで、これはたとえば座禅をして心を静め仏を見、浄土に生まれようとする行道のことです。

「散」

というのは散善(さんぜん)のことで、これは心を静めるというのではなく、良い行為をしてその善根を廻向して浄土往生を願うということです。

ですから、定散の人々というのは、心を整えて、清らかな人間となり、自分自身が出来る限り良いことをして浄土を願おうとする、そういう善を求めている人々のことです。

「聖道門」

というのは、もっと厳しい行道を指します。

これらは修行して自分がこの世で仏になろうとする人々ですから、親鸞聖人はこの人達も方便の側に入れておられます。

では、聖道門や定散の行に励む人たちを方便の側に入れられるのはなぜなのでしょうか。

これは

「信巻」

の一つの大きな問題でもあるのですが、親鸞聖人はどういう人々を真実の側に入れておられるかと言いますと、仏教で最も重罪である五逆罪を犯し、謗法罪を犯した阿闍世(アジャセ)を真実の側に入れておられます。

実は、親鸞聖人はここで阿闍世と自分自身の姿とを重ねて救いを考えていかれるのですが、この極悪人の阿闍世なればこそ、阿弥陀仏の本願に出遇い、真実の浄土へ行くことが出来たのだと受け止められるのです。

ここに、親鸞聖人にとっての

「真実」

とは何かを解く鍵があると思われます。