親鸞聖人における「真俗二諦」1月(中期)

では、親鸞聖人は

「真俗二諦」

という仏教思想をどのように見ておられたのでしょうか。

親鸞聖人がこのことに言及しておられる著述は

『教行信証』

のみで、この言葉はその他の著述には全く見られません。

『教行信証』

では、二箇所に真俗二諦の思想を見ることができますが、それはいずれも引文においてです。

したがって、親鸞聖人ご自身は、直接的には真俗二諦という言葉は使っておられないことになります。

ただし

『教行信証』

の全体が、親鸞聖人の言葉だと解釈すれば

「真俗二諦」

の思想を次のようにとらえられたということが窺い知られます。

第一は

「行巻」

大行釈・七祖引文中の、曇鸞引文

「真実功徳相」

釈に見られるもので、次のように述べておられます。

「真実功徳相」

とは何か。

この中、功徳に二種の相があるといわれる。

第一の功徳は、有漏の心より生じる功徳であって、この功徳は法性、すなわち仏教が意味する真実に順じていない。

そこでこの功徳を不実功徳と名づける。

いわゆる凡夫が行う行為の一切、すなわち人間界や天上界でなされる諸の善行のすべて、そしてその行為によって受ける果報のすべて。

換言すれば、因であろうが果であろうが、その一切はすべて皆、顛倒しており、虚偽なのである。

そこでここに受ける功徳の一切が、不実功徳と名づけられているのである。

では真実功徳とは何か。

第二の功徳がそれで、菩薩の智慧は清浄の業より起こっている。

そしてその業によって一切の仏事、自利・利他の行のすべてがなされる。

したがってその行業は必ず、法性によっているから、この行為によって起こるすべての相は清浄なのである。

清浄なるが故にここに生じる事柄の一切は、顛倒せず虚偽ではない。

そこでこのような功徳の相を、真実功徳相と名づける。

ではなぜ真実功徳の相は顛倒しないのか。

この相は法性によっており、二諦に順じているからである。

では、二諦に順じるとはどういうことか。

二諦とは、真諦と俗諦であることはいうまでもない。

この場合、真諦とは、法性法身である真如法性そのものを指しており、俗諦とは、真如より生じる清浄の相を意味していると言える。

したがってこの場合の俗諦は、方便法身としての、無阿弥陀仏の名号であり、三厳二十九種に見られる、浄土の荘厳の意だと受け取れる。

菩薩の業は、この法性法身と方便法身の二諦に順じてなされるが故に、その智慧は顛倒せず、慈悲の実践もまた虚偽ではないのである。

そこで菩薩は必ず、衆生を摂して清浄なる悟りに至ることができるのである。

では、この引文を通して、親鸞聖人は何を明らかにしておられるのでしょうか。

凡夫の行為の一切は不実功徳相であり、それ故に凡夫には二諦に順じる行為は存在しません。

それに対して菩薩の行為は、真実の智慧によって起こされるが故に、真実功徳相であり二諦に順じています。