親鸞聖人における「真俗二諦」3月(中期)

例えば、親鸞聖人は

『教行信証』「信巻」

の終わり

「逆謗摂取釈」

で、曇鸞大師の

「八番問答」

を引用しておられますが、そこで五逆罪と正法を誹謗する罪とどちらが重いかが問われています。

五逆罪とは、実際に自分の父や母を殺害する罪で、この世では最も重い罪だとされるものです。

これに対して、正法を誹謗するとは、ただ口先で

「仏教の教えなど嘘ばかりで信じるに値しない」

というのみです。

だが、それにもかかわらず曇鸞大師は、五逆罪よりも正法を誹謗する罪の方が、はるかに重罪だとされます。

なぜでしょうか。

これに対して曇鸞大師は、もしも諸仏・菩薩がましまさず、世間・出世間の善道を説いて、衆生を教化する人の存在がなければ、人々はどうして

「仁・義・礼・智・信」

を真に知りえようかと答えられます。

この意味からすれば、仏法はまさしく世間的な倫理や道徳のより根源の法というべく、世間一切の善法はこの仏法の教えによって、はじめて真に導きだされるのだと、親鸞聖人もまた考えておられたことが窺えます。

では、親鸞聖人はなぜ仏法という教法の中で、世俗の法にほとんど関心を示されないのでしょうか。

それは世間的善悪の問題、世俗の法は、あくまでも我々人間知のレベルで解決が可能だからだと言えます。

というよりも、世間的倫理道徳的事柄は、どこまでも人間知の次元で解決すべきことだというべきかもしれません。

人間社会で繰り広げられる善悪の問題は、そのほとんどがその時代、その社会における人間の常識で、判断可能な事柄のはずです。

まさに、人間の歴史はそのような中で流れているのであり、お互いの常識で、善が悪を廃して、人間社会を成立せしめているのです。

人間の行為は、人間倫理で十分なのであって、普通はその一つひとつに仏法の根本理念を照らしたりなどはしません。

ただし、だからこそ、世間の一切は顛倒しているのであって、仏法の目から見るならば、

「よろずのことみなもて、そらごとたわごと、まことあるなし」

といわなければならないのです。

だとすれば、ここで仏の眼を持つ者の出現が求められることになりますが、残念ながらこの末法の世はただ凡愚のみで、仏の眼を持つ衆生など誰一人としていません。

それはこの世において、この現実の世界を仏陀のごとく真実歩みうるものは、誰一人いないことを意味しています。

仮に仏法を一心に学び、自分は悟りの智慧を得たと嘯くものがいたとしても、それを真宗的にいえば真実信心の智慧を獲得したと歓喜するものがいたとしても、この世における人間の歩みはその一切が不実でしかないのです。