「親鸞聖人の仏身・仏土観」(5月後期)

いったい、浄土真宗とはどのような仏道なのでしょうか。

仏道とは、仏の証果を得るために、一人ひとりが歩み求める道にほかなりません。

その浄土真宗について、親鸞聖人は

『教行信証』「証巻」において、

謹んで真実証を顕さば、則ちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり

と示され、この無上涅槃極果の内実を、

「滅度・常楽・畢竟寂滅・無為法身・実相・法性・真如・一如」

だと説かれます。

浄土真宗の行道はいうまでもなく念仏の一道ですが、この道がまさに、念仏者を無上涅槃に至らしめます。

そして、この浄土真宗の教法が、

謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向有り。

一には往生、二には還相なり。

往生の廻向について、真実の教・行・信・証有り。

と「教巻」冒頭で明かされ、その証果の一切、行も信も、因も果も、往も還も、そのすべてが

「阿弥陀如来の清浄願心の廻向成就」

によると語られます。

このように、浄土真宗の教法は、阿弥陀の

「誓願」

によって成就された、二種の廻向がすべてなのです。

さて、

『末燈鈔』

の第五通では、この

「誓願」

を次のように述べておられます。

ちかひのやうは、無上仏にならしめんとちかひたまへるなり。

無上仏とまふすは、かたちもなくまします。

かたちもましまさぬゆへに自然とはまふすなり。

かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはまふさず。

かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とまふすとぞききならひてさふらふ。

弥陀仏は自然のやうを知らせんれうなり。

阿弥陀仏の

「誓願」

は、一切の衆生を

「無上仏」

にならしめるために発起されているといわれます。

では、無上仏とはどのような仏なのでしょうか。

無上仏には

「かたち」

がありません。

「かたち」

が存在する仏や涅槃は、無上仏でも無上涅槃でもありません。

だからこそ、浄土真宗の真実証は、

「利他円満の妙位、無上涅槃の極果」

なのであり、証果そのものが

「畢竟寂滅・無為法身・実相・法性・真実・一如」

だと解されたのです。

ところで、この無上仏を親鸞聖人は

「かたちましまさぬ」

故に、

「自然とはまふすなり」

と説かれ、その

「自然」

のはたらきについて、

「かたちましまさぬやうをしらせん」

と、一切の衆生に無上仏を知らしめるために、無上仏が動いて阿弥陀という仏が現れてくださったのだととらえられます。

では

「自然」

の道理とは何でしょうか。