「人間の本当に生きる道」(中旬)地球の裏に来た

どこかで私たちは、

「役にたつから好きだ」

「自分に都合がええから好きだ」

「自分に都合が悪くなると嫌いになる」

と思てませんか。

「そんなふうに人を見てません」

とよく言いますけど、私も家内が二、三日留守にすれば不便を感じますから、

「そばにおったら便利」

というところでつながってるんかなと思うてしまいます。

人間の愛というのはやはり、親鸞聖人がおっしゃるように

「妄愛」、

嘘の愛なんですね。

「あなたを愛します」

と言いますけど、

「愛するっていうことは、喧嘩することや、嫉妬することや、憎むことだってあるんだよ」

というのと一緒なんです。

愛と憎しみは裏表ですから。

しかし、愛の反対は憎しみじゃありません。

愛の反対は無関心なんです。

愛と憎しみは一つなんです。

一つの心の表裏なんです。

だから、憎しみがずっと向こうにあるんじゃなくて、いつも家族愛、夫婦愛、兄弟愛、すべての愛につきまとうんです。

『歎異抄』に

「さるべき業縁の藻よ干さば、いかなるふるまひもすべし」

とあるように、腹たてないかんような、争わなきゃならんような縁がきたら、パッと変わる。

さっきまで仲良うご飯を食べておっても、ちょっとしたことで喧嘩になることもあるんです。

そういうことを知ることが大事なんです。

「自分は間違うたこと、後ろ指をさされるようなとしてへん」

「自分は正直に一生懸命生きてきた」と。

それはそうかもしれないけれども、そっからはええもんは出てこないんです。

親鸞聖人の人間性というのは、そういうところにあるんです。

つねに仏さまに照らし出されておる私、私が見た私じゃなくて、お医者さんが見た私じゃなく、あるいは心理学者が見た私じゃなくて、仏さま、つまり目覚めた方によって見られた人間というもの、これがなければ、結局は上っ面のうそばっかり見ていることになります。

例えば、地球が丸いということはよくご存知ですね。

しかし、地球は丸いというよりも、どこまで行っても平坦だというのが我々の生活の実感ですね。

だから東西南北というものがあるんですが、私たちはそうやって限定してものを考えているんです。

東をどんどん行けば西に、南に行けば行くほど来たに行きます。

地球は丸いんですから。

ところが、丸いということが私たちの生活実感の中にないんです。

以前、南米に寄せていただいたことがあります。

そのとき、ご門主にあいさつに行ったんですが、ご門主が

「都呂須さん、日本が表でブラジルは裏、地球の裏に来ましたということをよく言いますけど、それは絶対におっしゃらないでください。

表も裏もありませんから。

それと、南半球と北半球の違いですから、すべてが真反対であるということをもつに記憶しておいてください」

とおっしゃいました。

真反対ですから、十二時間の時間差があるんですね。