『いのちはいただきもの』

暑い暑い夏から少しずつ秋の気配が感じられる9月。

「季節の足音」

という風情ある言葉に表されるように、四季折々の表情がめぐるこの日本。

肌をなぞるヒンヤリとした風、秋の夜長を賑やかに奏でる虫たち。

様々な場面を通じて季節の訪れを味わうことです。

秋は

「実りの秋」

とよく形容されます。

お米や農作物も収穫の時季を迎え、季節の食べ物がスーパーや食卓に並びます。

手間暇をかけ、思いをかけ育ててきた作物の収穫は喜びもひとしおです。

仏法のご縁をよろこぶ方の中には

「法(みのり)の秋」

と表現をされる方もいます。

自分のいのちに目を向けてみたとき、収穫という

「実り」

の一つひとつが、私たちのいのちに繋がっています。

多くのいのちと、そこに携るすべての方々への感謝の心が

「法(みのり)」

に出遇う慶びとなります。

浄土真宗について、よくこのように聞かせていただくことがあります。

「今まで当たり前と思っていたことが有り難いと思えてくる世界。

今まで思いもしなかったようなことが、あぁそうだったなぁと頷きに変わる世界。」

本来、何もない

「無」

であるはずの私が、たくさんのお陰により

「有る」

姿へと存在させていただいているという事実を知らされるとき、有ることが難しい私でありましたと、そこには深い頷きがあります。

我が身を知れば知るほど、自分のみの力によるものではなく、目には見えなくともそこには他の多くの支えをいただく中で、私のいのちの成り立つ姿が明らかとなります。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

実れば実るほど、まるで有難うとお辞儀をするかのように稲穂が垂れ下がる様子を詠んだ句です。

私たちはどうでしょうか。

毎日は当り前のように巡ってくるという感覚だと、なかなか気付くことの難しい視点かもしれません。

法(みのり)に出遇い、法に照らされた我が身を振り返るということは、有り難い、もったいないことでしたという視点を恵まれることです。

まさに有ることが難しい私が、多くのいのちをいただき、多くの支えの中に生かされて今、ここに私のいのちの存在があるのではないでしょうか。