「親鸞聖人の仏身・仏土観」(11月前期)

では、光明が智慧の

「かたち」

だとして、それは私たち衆生にとって、具体的に何なのでしょうか。

無限の智慧は、法性法身に同じであって、凡夫のよく知りうるところではありません。

だからこそ光明がその象徴になるのですが、日月の輝きをとおして、光明の徳性の一端を知りうるとしても、仏の光明はやはり

「いろもましまさず、かたちもましまさず」

であって、光明の輝きそのものは、凡夫には把捉しえません。

ではその光明の

「かたち」

とは何でしょうか。

『浄土和讃』に、

光明てらしてたへざれば不断光仏となづけたり

聞光力のゆへなれば心不断にて往生す

という一首をみることができます。

この中、

「聞光力」

の語に

「ミダノオンチカヒヲシンジマヒラスルナリ」

と左訓されています。

「弥陀の御誓い」

とは、

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたる」

誓いにほかなりません。

「南無阿弥陀仏」

は諸の善法を摂し、諸の徳本を具した真如一実の功徳宝海であり、称名よく衆生一切の無明を破し、志願を満てたもうからです。

したがって

「聞光力」の

「光」が

「念仏せよ。

救う。

という音声であり、

「聞」が、

称名する念仏者がその尽十方無碍光の勅命を信じる心となります。

まさに尽十方無碍光如来の光明の

「かたち」こそ、

「南無阿弥陀仏」

であったのです。

では、阿弥陀仏の

「極楽無為涅槃界」

とは、どのような浄土なのでしょうか。

極楽といい安楽といい安養といいますが、これらはすべて

「無為」

の語の形容であって、無為とは、虚無であり実相であり真如であり法性であり法身です。

したがってこの土は、法性法身に同じであって、楽の究極、無苦無楽の涅槃界です。

一実真如功徳大宝海の浄土は宇宙の全体を覆い、十方の微塵世界のすみずみまで満ち満ちています。

ただし一如であり法性である浄土は、いろもなくかちもましまさないといわれます。

この浄土の本性は迷える凡夫の思議を超えています。

ただし浄土の存在は、その迷える凡夫を救う場としてましますのです。

そのために、浄土は真如のままで衆生の現前に相をあらわさなくてはなりません。

それが真如の智慧、尽十方無碍光という光明です。

それ故に親鸞聖人は、

「真仏土巻」で、

「真仏・真土」

について仏は不可思議光如来であり、土は無量光明土なりと説かれます。

けれども、このように無量光明土といっても、その光明もまた衆生の思議を超えており、凡夫がその光明に出遇うことは不可能です。

そこで真如の尽十方無碍光如来が、一切の衆生を無上仏にならしめんがために、音声となって相を現わされたのです。

それが、南無阿弥陀仏という言葉です。

そうだとすれば、南無阿弥陀仏を離れて阿弥陀仏がましまさないのと同じく、南無阿弥陀仏を離れてその浄土も存在しなくなってしまいます。

つまり浄土は、存在論的にあるいは時間論的に、宇宙のどこかに存在するのではなくて、常に愚かな凡夫を救うための場として、十方の微塵世界にあるのだといえます。

その救いのはたらきが南無阿弥陀仏です。

阿弥陀仏と同様、浄土もまた南無阿弥陀仏を除いてはありえない、といわなくてはなりません。