「親鸞聖人の仏身・仏土観」(11月後期)

親鸞聖人にとっての真実は、南無阿弥陀仏がすべてであって、この一声の称名が阿弥陀如来の清浄願心によって回向成就された行であり信であり証であり真仏土だったのです。

けれども、この真理が親鸞聖人に信知せしめられた瞬間、その時同時にこのような獲心を親鸞聖人に生起せしめた阿弥陀仏の方便の一切が、親鸞聖人にとってまさに阿弥陀仏の大悲心そのものだと領解されたのです。

だからこそ、阿弥陀仏方便変化の所作として、浄土三部経に説かれる浄土が説示の通り真の仏身仏土として親鸞聖人に受け入れられたのです。

私たち愚かな凡夫にとって浄土とはいったい何でしょうか。

科学的な知識教育を受けた今日の私たちにとっては、素直に存在論的な浄土を信じることができません。

西方十万億の浄土、十劫の昔の阿弥陀仏の成道をいかに信じようとしても、そのような浄土や仏の存在を信じることは現代人には不可能となっています。

だからといって、無為・法性・実相・真如を浄土だということもできません。

人間の知性と関わりえない虚無の世界をいかに浄土だといっても、そのような浄土は凡夫にとっては無意味でしかないからです。

では、なぜこのような私たち凡夫の社会に、いま浄土の教えが必要なのでしょうか。

今日の私たち凡夫は現実の世を虚無として真に生き抜く力はなく、その一方死後に生まれる西方の極楽も信じることは出来ません。

だからこそ、凡夫がこの世を真に生きる無限の力強さと、限りない暖かさがいま必要とされているのだといえます。

親鸞聖人の浄土の思想は、そのための永遠の

「生」

を私たちに教えておられます。

「南無阿弥陀仏」

に一切の真実を見た上で、その念仏が暖かい言葉となって真実の道を語りかけているのです。

私たちの感覚において、西方は太陽が沈み一切が流れ行く寂滅の世界です。

そこには、一つの例外も許されません。

自分もまたそこに流れ往くのです。

そうしますと、永遠の念仏の輝きの中で、従容としてこの流れ往く自分を見ることができます。

この念仏の輝きを具体的に表現すれば、結局浄土の経典や『浄土論』に見られる浄土の荘厳になってしまいます。

その結果、一声の南無阿弥陀仏こそが無限の浄土の輝きになるといえます。

この念仏の真理に生かされる者は、すでにはからいが完全に破られています。

また、このような者の集いでは、現代であってもお互い念仏を称えつつ

「浄土でお待ちしています」

と言ったとしても、そこに何ら違和感は感じられません。

それは何よりも、念仏をとおしてその浄土が

「極楽無為涅槃界」

であると信知されているからです。