「本願海流」(中旬) 仏に遇えない私

私たちの今生きている世界を

「娑婆」

といいます。

でも、生まれて死ぬだけでは、娑婆は終わりません。

死んでも、また生まれるんです。

その新たに生まれたところもまた娑婆なんです。

そして、その娑婆のいのちもまた死ぬんです。

それがどこまでも続いていくから生死と言うのです。

 この生死の世界というのは、一回生まれて一回死ぬだけの世界ではありません。

「死ぬのはいやだ」

と思っている。

その心を無限に終わりなく繰り返していかなければならない。

これを生死流転と言います。

私たちは、人間に生まれて初めて

「死ぬのはいやだなあ」

と思ったんじゃないんですよ。

人間に生まれる前も何かの生を受けていて、そこでもきっと

「死ぬのはいやだなあ」

と思っていたに違いありません。

 よく

「死んだらおしまいだ」

という人がいますが、その人はきっと、そのように思いたいのでしょうね。

ただ、もし死ぬことがすべての終わりだったら、あるいはすべてがそこで解決するのであれば、死ぬことを恐れることは何もないじゃないですか。

ところが、

「死んだらしまいだ」

と言うている人が、実は一番死にたくないんです。

そこに、人間の大きく厄介な問題があるんです。

 確かに私たち人間は、せいぜい百年かそこらしか生きることの出来ない有限な存在です。

けれども、その有限な私が抱えている問題は、有限じゃなく無限です。

それを生死流転というんです。

ところが、私たちは、それをそうは思わないで、この世のいのちが終われば、すべてが終わりだと思ってしまうのです。

 具体的に言うと、物質的な姿が非常に肥大化して、物質の現象がすべてだという考え方が出てきました。

けれども、死ぬということだって、誰も見たことはありません。

死体というのはものですからね。

体というのは、死ねば硬直して腐っていきます。

あれは物質の変化なんです。

ですから、死体というのは死んだ人じゃないんですよ。

ましてや、お念仏の人はお浄土に往っているんですから、棺桶には入っていないんです。

棺桶の中に入っているのは体ですよ。

体はその人じゃない。

いわば、この世に脱ぎ捨てた着物です。

仏教が問題にするのは、着物じゃありません。

その自分というものを問題にするんです。

これはなんとも、名付けようがありません。

 そこを善導大師は

「自身」

と言われた。

「自身は現に此れ罪悪生死の凡夫」

と。

この自分というものは何者か。

それは、体じゃない、罪悪生死の凡夫だ。

「曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」

の身だと。

つまり、無始無終の世界を流転輪廻している、なんとも名付けようがない存在であるということを罪悪生死の凡夫と言われたんです。

これが、自分というものの正体なんです。

このことは、善導大師の深い内省がとらえた真理の言葉です。

ですから、

「私は人間です」

という言葉は

「私」

という真理をとらえていない言葉なんです。

この

「私」

とは何であるかということは、仏さまの教えを聞かないことには分からないのです。

善導大師は結局、

「この私は永遠に助かっていかない存在だ」

と言っておられます。

どこまで行っても、仏には遇えない私だ。

仏に遇えないということは、自分が死んだらどこへ行くかということが分かっていない人です。

どこから来たかも分からないし、自分が何ものかも分からない存在だということなんです。