『仏道人生の事実から目をそらさない生き方』

親鸞聖人は、しばしば

「空過」

ということを問題にしておられます。

「空過」

というのは、読み通り

「空しく過ぎる」

ということで、具体的には一生懸命生きて来たにもかかわらず、自分の人生を振り返ると、空しく過ぎてしまったと悲嘆するような在り方を意味しています。

親鸞聖人のご生涯については、幼少時にご両親と別れて出家なさったこと、法然聖人の門下にあったとき法難に遭われ流罪になられたこと、晩年教義上の異なりから我が子善鸞を義絶しなければならなかったことなどが断片的に伝えられています。

けれども、あまり詳細な記録が残されている訳ではありません。

なぜなら、親鸞聖人は自らの生涯においてご自身が何をなさったかということについて、ほとんど述べておられないからです。

おそらく、いつどこで、どういう家庭に生まれて、どのような生活を送り、いつ結婚し、子どもが何人いてといった、私たちが穿鑿(せんさく)したくなるような事柄は、全く語る必要のない事柄だと思っておられたのかもしれません。

ところで、既に挙げた断片的に伝えられている出来事は、そのどれもが大変辛く悲しいことであり、人であればみんな苦しくて逃げ出したり、泣き叫んだりしたくなるような出来事ばかりであったと言えます。

それは、激動の世の中を生き抜かれた親鸞聖人にとっても、耐え難いような出来事であったと推察されます。

しかし、親鸞聖人はこれらのことについての心の痛みや歎きといったものを筆に染めてはおられません。

それは、いったい何故なのでしょうか。

おそらく、親鸞聖人にとって人生における様々な苦難は、人として生きていく限り、縁に触れ折りに触れ、予期しない形でいつやって来るかわからないものだと受け止めておられたからだと思われます。

確かに、人生の途上で苦難に襲われたからといって、そのことを歎いてばかりいたのでは、その人生はただ空しく過ぎていくばかりです。

また、自分の人生の悲惨さを歎いたり、どれほど世の中を呪ってみても、その事実が変わる訳ではありません。

親鸞聖人が求められた仏道とは、人生の途上でどのような苦難に遭遇しても、その事実の全てが決して空しいものに終わらない。

たとえ苦しくても悲しくても、その苦しみが本当の意味で空しいものとはならない。

悲しみの中に人生の意味が見出され、苦しみの中にも無駄ではなかったといえるものが感じられる。

そのような道であったように窺えます。

したがって、決して空しく過ぎることのない道とは何かということを求めて続けて行かれのが、親鸞聖人のご生涯であったとも言えます。

ともすれば、私たちは自分の思い通りにならないことが自身の上に起きると、その原因を自分の外に、あるいは過去に求めてしまいます。

この場合、外に原因を求めた時には、多くは亡くなられた方々にその責任を転嫁しがちです。

また、この現実を承知することは出来ないけれども、どうしても受け入れなくてはならないものとして諦めた時には

「運命」

という言葉を口にします。

これらは、いずれも自らの人生の事実から目をそらそうとするあり方だと言えます。

しかし、そのような在り方に留まっていたのでは、どれだけ生きたとしても真の意味で自分の人生を生きたとは言えないのではないでしょうか。

人生において、単に喜びだけを望ましいものと思っている限りは、本当に安心することは出来ません。

悲しみの中にも苦しみの中にも、常に自分にとってかけがえのない値打ちが見いだされてこそ、生きていることの尊さを知ることが出来るのです。

一度限りの人生が日々空しく過ぎてしまうか、あるいは十分に生き尽くしたと言えるような輝きを放つか、それはただ人生の事実から目をそらさない生き方、つまり仏道に立てるかどうかということにかかっているように思われます。