私が、小学校1年生の時の国語の教科書に、非常に印象深いお話がありました。

私が、小学校1年生の時の国語の教科書に、非常に印象深いお話がありました。

とはいっても、実は長い間この話を特に思い出すということはなかったのですが、大人になってから自分がしていることを振り返った時、突然少年の日の記憶が鮮やかによみがえってきたのです。

おそらく、心の奥深くに刻み込まれて、眠っていたのだと思われます。

このお話の記憶がよみがえった時、私は

「もしかすると、このお話が自分でも意識しないところで、自分の生き方に影響を与えたのかもしれない」

と思いました。

そこで、ふと気になって、最近インターネットで検索したところ、私と同じようにこのお話を記憶に留めている人が多かったようで、すぐに見つけることが出来ました。

そして、それが

「小さい白いにわとり」

という題で、ウクライナ民謡であったことを初めて知りました。

一年生の教科書ですから、ほとんどは平仮名ですが、今は漢字をまじえて紹介します。

「小さい白いにわとり」

小さい白いにわとりが、みんなに向かって言いました。

“この麦、誰がまきますか”

豚は「いやだ。」と言いました。

猫も「いやだ。」と言いました。

犬も「いやだ。」と言いました。

小さい白いにわとりは、ひとりで麦をまきました。

小さい白いにわとりが、みんなに向かって言いました。

“この麦、誰が刈りますか”

豚は「いやだ。」と言いました。

猫も「いやだ。」と言いました。

犬も「いやだ。」と言いました。

小さい白いにわとりは、ひとりで麦を刈りました。

小さい白いにわとりが、みんなに向かって言いました。

“誰が、粉にひきますか”

豚は「いやだ。」と言いました。

猫も「いやだ。」と言いました。

犬も「いやだ。」と言いました。

小さい白いにわとりは、ひとりで粉にひきました。

小さい白いにわとりが、みんなに向かって言いました。

“誰が、パンに焼きますか”

豚は「いやだ。」と言いました。

猫も「いやだ。」と言いました。

犬も「いやだ。」と言いました。

小さい白いにわとりは、ひとりでパンに焼きました。

小さい白いにわとりが、みんなに向かって言いました。

“このパン、誰が食べますか”

豚は「食べる。」と言いました。

猫も「食べる。」と言いました。

犬も「食べる。」と言いました。

その後のことは書かれていません。

まるで

「あなたが小さいしろいにわとりなら、どうしますか」

と問いかけているようです。

インターネット上では、この内容に対して、いろいろな見方から様々な所感が述べられています。

けれども、その大半は

「大人の視点」

からのものです。

「なるほど、そういった受け止め方もあるのか」

と感心するものもありますが、私が子ども心に思ったのは

「何かを成し遂げるためには、小さい白いにわとりの役目を果たす存在が必要だ!」

ということだったようです。

もちろん、子どもですから、明確にそのようなことを自覚した訳ではありません。

けれども、強く心に残ったことだけは確かだと思います。

大人になってから、例えば宴会でいうと幹事、行事でいうと企画・進行係。

苦労は多いものの殆ど脚光を浴びることのない、いわゆる

「裏方」

の役割を進んで担ったりすることが多いのですが、これまで法要・研修・集いなどの催しが終わり、参加された方々を見送る際、それぞれに満足そうな笑顔で帰途につかれる様子を見ていると、それで苦労が報われる思いがしてきました。

その一方で、催しは規模が大きくなればなるほど

「全員一致協力」

というあり方が理想的なのですが、中には非協力的な人、あるいは協力しないばかりか批判をしたり、非難の言葉さえ浴びせる人もいたりします。

しかも、そういう人に限って、目立つ場所に立ちたがったり、自分勝手な行動を取ったりすることが多々あるのです。

凡人ですから、そういう人達の心ない言動に対して腹を立てたり、文句の一つも言いたくなってしまうこともあったりするのですが、ある時ふと

「あっ!自分は小学校1年生の時の教科書に載っていた、あの白い小さいにわとりと一緒だな…」

と、突然このお話を思い出したのです。

自分が何らかの役割を果たすことで、誰かがそれを喜んでくれる。

そして、それが同時に自分の喜びになる。

仏教では、菩薩が人々を救うはたらきを

「利他」

という言葉で言い表しています。

私は、自分のしていることが、菩薩の利他行に決して遠く及ばないことは十分すぎるくらいに承知していますが、もしかするとその方向性だけは相似しているかもしれないという気がしています。

少年の日に出会ったお話が、無意識の内に心の奥に刻まれ、自分の生き方を決定付けた。

そう思うと、大切なことは、物語を通して伝わるような気がします。

そして、その時には特に意識しなくても、心の奥深くに刻まれるということがあれば、やがて人生のどこかで華開くのだと思います。

そうすると、いま社会問題化している

「いじめ」

と、なかなか消えることのない

「差別」

の問題も、幼少期からそれがいかに愚かで人間として恥じるべきことかということを、物語を通して心に刻み込む営みが大切なのではないか。

そのためには、今自分に何かできることはないか…、そんなことを秋の夜長に考えていることです。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。