『幸せだから感謝するのではない 感謝できることが幸せである』

私が最近、とあるご門徒の方の家に、入仏式というお仏壇をご家庭におむかえする法要を勤めに行った時のお話です。

仏壇の前にとある物が置いてあるのです。

何かといいますと、この間発売されたばかりの『オータムジャンボ宝くじ』の束が置かれているのです。

宝くじが置かれていることはわかっておりましたが、私はあえてそれが何かを尋ねてみました。

すると門徒さんは、こうおっしゃいます。

『ご覧のとおり、宝くじです。

今度こそは当たってほしくて、新しくお迎えしていく仏さまに当たるようにお願いしようと思って…』とおっしゃるのです。

なるほどなぁ、と思った私は『では、宝くじがもしあたったらどうされますか?』と、尋ねてみました。

すると、『もちろん、仏さまに感謝致します。

そのお金で仏壇ももっと立派にしたい』とおっしゃるのです。

なので、さらに私はこう聞いてみました。

『では、もし当たらなかったらどう思われますか?』

するとこう答えが返ってきました。

『それは残念ですね。

あてにならない仏さまですね(笑)』

と言うのです。

私は、苦笑いをせざるを得ない状況でした。

本来、お参りをするということが教えをいただいて、心豊かになるべき縁とであるはずなのに、それが自分の欲求をみたすためのお参りになってしまっているわけです。

この場合ですと、宝くじが当たったら仏さまに感謝する、当たらなかったらあてにならないと言って、感謝しないといった状況になってしまっているのです。

お参りをして、仏前に手をあわすといった行為が、単なる自分の都合を満たすための手段になってしまっているのです。

仏前に手をあわすということは、大切なことにきづかせていただき、その瞬間があることが有難いと思わせていただけることが重要ではないかと思います。

人生はなかなか思いどおりにはなりませんし、そんな中で幸せを感じることができたならば、感謝する心がわいてくるということがあるのかもはしれません。

ですが、感謝することができるというのは、また手をあわすご縁があるということは『生きている』、ということではないでしょうか?

生きているということは、誰かに、何かに支えられていてこの瞬間があるということではないでしょうか?すなわち、日常生活の中で感謝することができたという中に自分自身を、大切ないのちを知らされる仏法にであえたのではないかと思います。

生きている(支えられている)からこそ感謝する実感があるのではないでしょうか?

今日もこうして、感謝の気持ちで、手をあわせて、命あることにきづかせていただき、今日の日の尊い命をせいいっぱいおくらせていただきたいものですね。

それを積み重ねていくことで命の美しく大きな花が咲いていくのではないでしょうか。

私もいま、こうして執筆させていただくなかで、いのちあることを深く感じ、感謝の気持ちをもつことができた次第です。

有難く味あわせていただきたいと思います。

南無阿弥陀仏。