「自分の老年期を考える」(下旬)目玉が動いたよ

私たちは、意識はないけど

 「父ちゃんが頑張っているから」

 「じいちゃんが頑張っているから」

 と言って、看病します。

 ちょっと痙攣しただけなのに

 「笑ったみたい」

 とか、目がちょっと動いたら

 「目玉が動いたよ」

 と、私たちは一生懸命意識のない人を看病するじゃあないですか。

 この人は、いなくなったからといって、もう一回再現することは出来ませんものね。

 そのぬくもりに触れることもできないし。

 そう考えると、生きる営みをしていらっしゃるということは、そもそも外に向って生きているってことなんです。

 外からの何かに対して反応を示す。

 だから内にこもってはいないわけですね。

 人に対していろんなことを発信しているんだと。

 そうい意味では、黙っていてもそこにいらっしゃる、存在しているということが、この人を発達させているんだということです。

 老年者観と言いますのは、私が私であるように、他人もそれぞれその人自身であるわけですから、対等な関係で、差別のない関係を持たないといけない。

 これは絶えず身に付けていないと時々出るんですよね、ぽろっと。

 そういう化けの皮が剥がれないような本物にならないといけないと思います。

 そうなると、少し楽になるんですよ。

 大変な状況にある人を見て、それだけでその人を判断するんでなく、全体論的に見て介護をするということが大事な基本ですね。

 次にお年寄りに多い障害の介護方法です。

 人はある年齢に達すると、おもらしがあったりします。

 老年期というのは、このようにやむにやまれない障害が出てきます。

 介護とは、そういう障害一つひとつをこなしていく役割です。

 私たちの役割であり、老年者の課題です。

 そういう課題を乗り越えるために悲しい目にもあいました。

 恥じもかきました。

 汗もかきました。

 しかし、老年者は、このようなことを積み重ねて、その課題を乗り越えてこられた方ですから、とても偉大な人だと思います。

 だから、傷つけないようにちゃんとケアしてあげる。

 痴呆になったときもそうです。

 ブツブツ言ってやったら倍になって返ってきます。

 傷つけないように手早くケアをする。

 繰り返し何遍も同じことを。

 そしたら必ず良くなってきます。

 いろんな変化に対して、生きていかないといけませんけど、その一つひとつを乗り越えることが発達して、生きているということです。

 学生たちに老年者のイメージを書かせますと、何割かは

 「おじいちゃん、おばあちゃんのイメージは、お小遣いをくれる人」

 と書きます。

 でも、一方では非常に尊敬の念、敬意を持っています。

 だから、老年者も真剣に自分たちの生きた時代のことを語り継いでいかないと、今の子どもたちがかわいそうです。

 教える人がいなくって…。

 一番素敵に年を取るための基盤は、やはり家族です。

 家族は、社会の一番小さな単位ですから。

 たまには、お孫さんと接触をして、私たちの老いの姿をそのまま見せてあげないと、そして教えてあげないといけないのではないかと思います。