小説 親鸞・紅玉篇 2月(3)

それ以来、範綱は、病気といって引き籠もっていた。

一室に閉じ籠もっていても、世間の物音は、ごうごうと、聞こえてくる。

(また、山法師の強訴じゃ)

(白山の僧が、神輿(しんよ)をかついで、延暦寺へ押しかけたそうな)

そんな噂は、もう珍しくもない。

政治好きな法皇でさえ、山門政策には手を焼かれ

(双六の賽(さい)と、山法師ばかりは、朕の心のままにならぬ)と、嘆じられたという。

その僧徒たちが、示威運動をやったり、延暦寺の座主が、そのために流されたり、院の政務も、洛内も、騒擾(そうじょう)を極めていたので、新大納言一派の暗躍も、五月中には、ついに、法皇へはたらきかける機会がなくて、過ぎてしまった。

範綱は、ひそかに、

(いずれも、一時の不平の寄り集まりじゃ、このまま、自壊してしまうかもしれぬし、そうなれば、かえって法皇のおんためというものだが)近ごろ、どことなく鬱結(うっけつ)しているものが、院のほかから炎を噴いて出ることが祈られた。

だが、最初に、密使としてここへ訪れた多田蔵人は、洛中の騒擾にまぎれて、あれからも、しきりと一人でこっそりと訪(や)ってきた。

「――お不快なそうじゃが、だいじにせられい。

いやなに、たってお目にかからいでもよろしい。

拙者は、お預け申してある平家の謀(まわ)し者めを、調べて立ち帰る」

そういって、家人に裏庭へ案内をさせた。

いつぞやの雨の夜、大騒ぎをやって捕らえた曲者(くせもの)は、一時、納屋へ押し籠めておいたが、家人が物を出し入れするごとに不安だし、もし逃げられて、六波羅へ、あだ口をきかれたらばお館の御運命にもかかわるといって、箭四郎が、急ごしらへの牢を作った。

空いている厩へ、材木を立てて、その中へ抛(ほう)りこんでおいたのである。

「見るからに、強情そうな面がまえよ。

きょうこそ肉をたたき破っても、口を割らせてくれるぞ」

蔵人は、牢の外から宣言して、曲者を、縄目のまま、外へ出させた。

馬を打つ革鞭を持って、

「こらっ、下司」

「…………」

「六波羅のまわし者とは分かっているが、誰にたのまれたかっ。

何を探れと、いいつけられたのか」

「…………」

「いわぬかっ」

ぴしいっと、鞭が一つ鳴る。

「ぬかせっ」

「…………」

「ぬかさぬかっ」

二つめが唸る。

鞭のうなるたびに、曲者の顔に赤いすじが一つずつ腫れあがった。

そして、しまいには、紫いろになり、耳や、唇や、いたる所から、血しおが流れた。

「ううーむ……ううーむ……」

ついには、大きなうめき声と、鞭の音とが、根くらべをするだけであった。

蔵人は、精をきらして、

「よしっ、きょうはこれで、帰るとするが、また来るぞ。

生命が惜しくば、口をあくことだ。

考えておけ」

いいすてて、帰ってしまった。

館の者たちは、眼をふさぎ耳をふさいでいた。

しかし、こんな程度のことは、今の京洛(みやこ)の内には、ざらに行われていることだ。

見馴れている蔵人などは、まだまだ手ぬるいと思って帰った様子なのである。