『支え会おう敬いあおうみんな同朋(なかま)だ』(後期)

漢字の成り立ちを考えるときに、必ず出てくるのが白川静先生のお名前です。

本場中国の研究者より革新的な漢字の解釈をされた先生で、日本の誇りとも言える方です。

先生の書かれたものを読ませて頂くと、漢字は占いや呪術、政治を元にして成り立っていることがよく分かります。

「幸」さち、という字について考えてみます。

「幸」はしあわせ、幸福の

「こう」です。

現代ではほとんどこの使い方をしますが、もともとは海の幸、山の幸といった、なにか恵まれたものを表す言葉でした。

わたしの祖母が

「幸」と書いて

「コヲ」という読みだったのも、明治時代、食べていくのも苦しい時代に

「せめて幸福な人生を」という気持ちがこもっていたことと思います。

では、もっと時代をさかのぼって、この

「幸」という字は本来どのような意味だったのかと調べてみると、

「手かせ(手錠のようなもの)」を意味していたようです。

これは

「幸」という字を横にしてみると、何となく分かるような気がします。

「手かせ」

をするというのは、当時の罪人に対する処置の仕方なのですが、一時にせよ手の自由を奪われるのは不自由なことです。

けれども、これは刑罰を受けることに比べれば、思いがけない

「しあわせ」でした。

なぜなら、理不尽な理由によって死刑にされた人もいたでしょうし、死刑以外にも残虐な刑罰がいろいろありました。

罪人であることを示すための入れ墨を施す刑、目を傷つけたり、手や足を切断したりする刑、

「史記」の執筆者である司馬遷は宮刑(腐刑とも)という生殖器を切除されるなどの刑を受けたりしました。

これら残虐な刑罰を受けることに比べれば、たとえ手の自由を奪われてはいても、手かせをされるというのはまだましな方です。

そこで、より重い刑罰を免れているということから

「幸」といったようです。

「不幸中の幸い」というと、その概念が一番ピンとくるのではないでしょうか。

しかし、他の人びとの不幸と比べて、

「自分はまだまし…」という姿勢はいかがなものでしょうか。

「あそこは子どもさんが病気で大変ね、うちは元気で良かったわ…」

「旦那さんが亡くなったんだって。うちのは、酒ばかり飲んでだらしないけど、元気だからしあわせと思わなきゃ…」

このように、他人の不幸を見ることで、自分の幸せを感じるということは、いつか自分も他人に踏みにじられることを意味します。

「そんな生き方ではいけない。あなたもやがて苦しむ時が来ますよ」

と語りかけているのが、仏さまの教えだと思います。

「他に対する優しい心を持って欲しい、なにか一つでも。言葉かけでも笑顔でも、何でもいいからできることをしたい」

という、心が大事です。

しごく当たり前のことを言っているようですが、私はさもしい心が根深く、他の人びとの幸せを自分の幸せとはなかなか思えません。

けれども、そう思えないからしなくてもいいというのではなく、そのような自分の心をごまかすことなくさらけだして、本当に恥ずかしいことだと省みることが大切なのです。

そういうことに気付かせてくださる仏さまの話を聞ける仲間がいることほどすばらしいことはありません。

「みんな仲間だよ」

簡単そうですが、そう言える人がいれば、とても有難いことです。