つい最近、小・中学校の同窓会が行われました。

つい最近、小・中学校の同窓会が行われました。

3人の幹事さんが1人でも多くの人に参加してもらいたいという思いで、1年前から同窓会開催の案内をされ、さらに案内状だけでなく1人ひとりに電話で連絡をとって下さいました。

そういう働きかけが実り、7割以上の方が出席されました。

これまでの歴代の小・中学校の同窓会の中でも、特に参加率が高かったようです。

3人の幹事さんには本当に頭がさがる思いです。

今年は、私の年代の男性は世間一般で言われる厄年にあたりますので、例年であれば男性は神社で厄払いをしてから母校を見学し、同窓会に参加するというのが慣例になっていたようです。

しかし、幹事さんから

「お寺でも厄払いはできるの?」

と聞かれたので、少し考えて私は

「厄払い的な法要はできるよ」

と答えました。

すると

「そしたら、厄払いの後のお話もお願いしていい?」

と言われ、引き受けることにしました。

その幹事さんは、

「せっかくだから、今年は男子も女子も一緒にお寺にお参りした後に、同窓会を開催するように案内をするからね」

と言ってくれました。

当日は、同級生と先生にもお参り頂き、読経の後お話を致しました。

そこで私は、冒頭

「厳密に言うと、浄土真宗では厄を払うという考え方はありません。

しかしながら、今日は厄ということをご縁として、今こうして賜っている我がいのちの尊さ・有り難さを今一度見つめていく、尊いご縁として受け止めていただければと思います」

と述べたあと、次のようなことを思いながら話をしました。

浄土真宗の教えには

「厄払い」

をするという考えはありません。

確かに、教義を世の人びとに正しく伝えることはとても大切なことだと思います。

しかしながら、浄土真宗の教えにまだ触れたこともない人、具体的には迷信・俗信的なことを漠然と信じている人に対して、教えを聞こうとする気持ちになる前から、

「これはいけない」

「あれはいけない」

と切り捨ててしてしまうと、その人は教えを聞くご縁さえも結べなくなってしまいます。

私は、たとえそれが浄土真宗では否定していることであっても、今回

「厄払い」

ということをご縁として、同級生が本堂に足を運び、浄土真宗の教えに触れる機会を持ってくれたことを有り難く思いました。

人生という道を歩いていく中で、縁がととのえば病気に罹ったり、いつどこで事故に遭うかもしれない私たちです。

そして、いつか必ずこの娑婆世界を離れていかねばならない時が、必ずやってきます。

その時、その苦難を真正面から受け止め、引き受けていく智慧と勇気とを与えてくれるものがお念仏の教えです。

目の前の苦しみや悲しみを避けたり、ごまかしたりして進んで行っても、また必ず別の苦しみ悲しみにぶつかります。

目の前の現実から目を背けようとしたり、ごまかしながら生きていく人生ではなく、その現実をしっかりと見つめ、良いご縁も悪いご縁も、

「全てのご縁が、自分の人生を深めてくださる尊いご縁であったとなあ」

と言い切れるような人生を、お念仏申す日暮しの中に味わっていきたいと思うことです。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。